戦争はどうだったのか? 起因・責任・靖国・悲惨さほか  
        
                  (文芸春秋9月号 読売新聞6月29日より)   新聞特集などを分かり易く整理

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文芸春秋より
リンク集
対米戦争の破滅の選択はどこで
  ハルノート・三国同盟・天皇は
統帥権が国を滅ぼしたのか
 . 一兵士が見た戦争の現場
南京虐殺は戦犯行為
東京裁判とは・否定意見
 . 戦争責任・戦争の記録
東京裁判・考えること
靖国問題・分祀論合祀論
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  文芸春秋(9月号)保阪正康氏の連続対談より  (保阪正康氏:ノンフィクション作家)
                        (詳細記事は文芸春秋9月号をご覧ください)
■対米戦争破滅の選択はどこで :   (半藤一利氏:作家)
「ハルノートを受諾していたら」・・・・・ 昭和16年11月26日、ワシントンでハル国務長官から野村駐米大使に最後通牒がハルノートが渡された ・ 日本への「中国・インドシナから日本全面撤兵」「蒋介石政権の承認」「日独伊三国同盟からの離脱」要求であった ・ 東条英機首相はそのノートをみて「戦争しかない」と興奮したという ・ 三国同盟離脱は、ドイツの米英への先勝頼りだったし、同盟離脱は国際信義上も容認できるものでなかった ・ ハルノートの10日前に大本営政府連絡会議で「戦争への腹案」が決定なされていた (半藤一利氏談:作家)
南部仏印進駐がどうだったか・・・・・・ 昭和16年7月の進駐によって、アメリカの対日石油輸出が全面禁止につながったが ・ この進駐の主唱者であったのは海軍の岡軍務局長、海軍の中でも山本五十六連合艦隊司令長官などはアメリカの凍結指令を見通していたが、他の海軍高官には戦争推進者が多かった ・ 海軍には、日本の海軍の戦力がアメリカの7割あれば戦いに勝てる、7割あるのは12月までとの勝手な算用があった(半藤氏談)    
日独伊三国同盟の決定は?・・・・・・ ではこれらに先立つこと昭和15年9月の日独伊の同盟は避けられなかったかどうか ・ 三国同盟を進めた松岡外相の考えは、往く往くはソ連を加えた四国協商になってアングロサクソンを敗れるであろうとの目論見であった ・ 松岡は、昭和16年4月にソ連と不可侵条約を結ぶが、ドイツがソ連へ侵攻するや「今こそソ連を撃て」と北侵論に変わる ・ 昭和天皇は三国同盟に極めて憂慮をされた ・ それに対して近衛文麿首相は「四国同盟は戦争阻止に役立つ」と返答したとのこと (保坂氏談) 
天皇は突入に反対できなかったか・・ 「終戦のとき天皇は聖断を下したのだから、開戦のとき反対を何故出来なかったのか」の疑問がある ・ 終戦のとき、最高戦争指導会議で戦争終結と継続の意見が3:3に割れ、鈴木貫太郎首相が無理やり天皇に判断を仰いだところ終結に賛成と「聖断」をくだされた ・ ところが開戦のときは、政府も統帥部も開戦に賛成であったので、立憲君主の天皇には反対が出来なかったのです (保阪氏談) 近衛首相と天皇があのとき反対していたら、クーデターが起こったことでしょう (半藤氏談)       
開戦内閣が東条でなかったら・・・・・・ 9月6日の御前会議で近衛首相はルーズベルトとの首脳会談が無理だと分かって、政権を投げ出してしまう ・ このとき主戦派中の主戦派東条英機陸軍相が首相になる ・ 皇族が首相にとの意見もあったが、昭和天皇は開戦の裁定に皇族が関与するに大反対をされた (保坂氏、半藤氏談) 天皇は東条が陸軍を一番抑えの効くものなので選んだとされるが、体勢戦争開始でやめられず、12月6日東条は皇居の方を向いて泣いたという ・ 天皇の意思に反したことと、戦闘への緊張からであったのであろう (保坂氏談)
日本社会にも弱さがあったのでは・・・ 日本人は黒船が来航するまでの300年間鎖国政策を取り、その反動で蝦夷思想というものが出てきた ・ 欧米が桁違いに強いことを知った明治政府は、やがて富国強兵制度をとった ・ このような外圧への対抗意識が、昭和になって蒋介石を援助している英米を許せんとなって、対米開戦への道に進んで行ってしまったのではなかろうか (半藤氏談)  
   
■一兵士が見た日中戦争の現場 :   (伊藤桂一氏:作家・中国戦線に長く従軍を体験:大正6年生まれ)           
昭和初め頃の国民の意識・・・・・・・ 当時は満20歳になった男子は誰でも徴兵検査を受けねばならなかった ・ 兵役期間は2年間で帰ってきてから上の学校に行けたのですが、甲種合格して習志野騎兵連隊に入隊しました ・ 2年後除隊できる筈でしたが戦争が拡大し、ソウル、中国の山西省へと送られました ・ 昭和の初め頃は、「日本は敵から攻められるんじゃないか、日本は危ないぞ」との意識がありました ・ その頃若い男は防人(サキモリ)としての任務があると思っていました  
命令する側とされる側・・・・・・・・・・・ 軍隊、特に陸軍はエリート層と兵士が分裂していました ・ 上層部は幼年学校、士官学校、陸軍大学校卒業の参謀本部作戦課の幕僚達、一番下は連隊長、大隊長 ・ 兵士の一番上は中隊長、250人程の部隊のトップ ・ 一番発言力のあったのはその幕僚、参謀本部の部課長クラス ・ 命令される側は部隊によって差はあるが、食料も弾薬も無く戦いました   
中隊長により部隊が変わる・・・・・・・・ 日本陸軍の戦闘機能の基本は中隊にあり、中隊長は現場の権力者 ・ 中隊長により兵隊の性格はよくも悪くもなる ・ 中隊長の良し悪しはその人間性、威張らない信頼できる中隊長の下では兵士もよく動き強い 
連帯感をもって生きている・・・・・・・・ 戦中世代の人たちは、20代に多数殉職していった ・ 残ったものはその分、「生命の連帯感」をもって生きている ・ 死んだ戦友の意思を継続する、継続しなければならないとの思いを持ち続けています    
   
■統帥権が国を滅ぼしたのか :    (戸部良一氏:防衛大学校教授)  
昭和陸軍が統帥権独立をかざした・ 統帥権とは「軍隊を指揮する権利」ですが、統帥権の扱い方に問題があった ・ 明治22年大日本帝国憲法で「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」と謳われた ・ 日本陸軍の母体は、薩摩長州土佐から献上された兵士、政府直轄の御親兵(近衛兵)である ・ 指揮権は国が持っていたが、実際は廃藩置県の後も出身藩のリーダー(西郷隆盛など)に忠誠心をささげていた ・ 藩に頼ることで問題が多々おき、国で徴兵することになったが、その近衛兵からも反乱がおきた ・ 陸軍の最高責任者山縣有朋は統帥権の独立、参謀本部を設置して訓戒などをつくった ・ 政府と軍を切り離すようになっていった 
自由民権運動を恐れた・・・・・・・・・・ 統帥権の独立は現在のシビリアンコントロールの逆を行くものだが、こうせざるを得なかったのは、竹橋事件など自由民権運動などで不満を持つ兵士の影響が出てきたから、それを警戒して山縣らが統帥権独立を図った ・ 山縣らの「軍人訓戒」で、政治への不参加・上官への服従を強く出す ・ それにてもその後も軍人が政治に参加しようとするので、明治15年に「軍人勅諭」が発布され「天皇の軍隊」であると説かれる        
明治時代は政治が抑えていた・・・・・ 日進日露戦争のときには、「統帥権の独立」を構築した人たちが、まだ政治の中心におり、政治主導で戦争指揮をとっていました ・ 藩閥の存在も大きく、政治家から軍人、官僚までを網羅した強固なネットワークがありました   
大正時代は政治が些かリード・・・・・ 大正時代に入ると藩閥の力も衰え、国民の支持を背景に政治が台頭してくる ・ 陸軍大臣・海軍大臣が現役軍人となっていく、これに対して軍は危機感を持ち始める ・ ここで宇垣は既得権を手放したくなく、統帥権を持ち出す ・ それでも1920年代は第1次大戦で国民総力戦が必要、政治が必要との認識から、軍部は政治に協力的になる  
昭和に入って政治に嫌悪感・・・・・・・ 1928年普通選挙で政党政治が腐敗、党利党略にあけくれ収賄などが起こった ・ 若い軍人たちに政治への嫌悪感が湧き上がった ・ そこで軍部は自分たちで新しいシステムが必要であるとして、軍が政治的になっていった ・ 濱口内閣を狙撃する事態まで起こしてしまった ・ 統帥権が政治を相手に攻撃をすることになったのはこのときから ・ 1931年満州事変勃発、1932年犬飼首相暗殺などとつづき、ここで政党政治は終焉を迎えた 
陸軍の戦争への進行を止められず・・ 昭和13年日独伊協定の強化問題で、海軍や外務省が反対であったが、陸軍が通してしまった ・ 東条は2年9ヶ月の間、首相・陸相・参謀総長を兼務したが海軍の作戦には口を出せなかった ・ ばらばらに動く状態・明治以降日本には軍と政治を統合するしかけをつくってこれなかったからか            
                 
■南京虐殺は 戦争犯罪行為 :    (秦郁彦氏:日本大学講師)        
戦争犯罪とは・・・・・・・・・・・・・・・・・ ハーグ陸戦法規などの国際法規に違反する行為、民間人や捕虜への虐待・殺害・掠奪などが「戦場犯罪」と言われるもの ・ 「平和に対する罪(侵略戦争)」「人道に対する罪(ナチスのユダヤ虐殺など)」は戦争犯罪である ・ 日本軍が行った南京での虐殺も、捕虜への殺害であり戦場犯罪にあたります       
南京大虐殺・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 昭和12年12月、中華民国の首都南京を攻撃、占領した日本軍が約2ヶ月にわたって、中国人捕虜や敗残兵、更衣兵、一般市民を不法に殺害した ・ その数30万人ともいわれる ・ 完全占領から4日後に殺害行為を行ったのであるので戦争犯罪といわれても弁明しようがない        
補給不足で残虐行為へ・・・・・・・・・・ 東京裁判で死刑になった松井大将(当時中将)が行った ・ 苦戦の末、上海を占領した松井軍は、その勢いで補給も無いまま南京へ攻め込んだ ・ 食料や装備が不足しているので、徴発の名目で掠奪・強姦がつづき、口封じに殺害と悪循環になっていった ・ 戦線への補給の軽視は残虐行為へとつながった ・ 徐州、南京で勇戦した西住隊は「徴発」は絶対に禁じていた ・ 掠奪、強姦を常とさせていた中島指揮官の責任も大きい
当時の中国への感情が禍した・・・・・ 日本軍が中国で行った南京をはじめとする残虐行為は、組織的なものではなかった ・ 一つ一つの背景には、当時日本人が中国に抱いていた屈折した感情があったからであろう (保坂氏談) 中国が米英に煽動されていることへの反感などがあったのではなかろうか
  
■東京裁判とは :    (牛村圭氏:国際日本文化研究センター助教授)       
基本的な枠組み・・・・・・・・・・・・・・・ 極東国際軍事裁判(通称・東京裁判)はマッカーサー占領軍最高司令官の裁判所憲章に則って行われた軍事裁判 ・ 昭和21年5月3日開廷、昭和23年11月12日判決、死刑7名、終身禁固16名、その他禁固2名、病死2名(以上28名をA級戦犯と称する) ・ A級の他にBC級が5000人いて1000人が処刑されている ・ 原告は11カ国     
陛下は訴追されず、広田は訴追・・・ ウェッブ裁判長は陛下に戦争責任を問いたかったがマッカーサーの政治的判断で訴追されなかった ・ 戦争回避に努力を続けた広田弘毅は「わたしに関係あることはわたしに責任あり」と発言し被告から外しようがなかった ・ 目の敵戦争推進の陸軍関係多く、海軍関係少ない ・ ソ連検事団から要求のあった阿部、真崎、重光らは被告から外された      
A級戦犯は無罪を主張側の意見・・・ 28人の被告人は、アジアの植民地化の列強に抗すべく大東亜の新秩序をと掲げ、米軍の挑発に堪えかねて自衛戦争に乗り出したのだとの主張をした ・ 一方、東条・広田・重光らは国民に申し訳なかったと陳謝している     
   東京裁判のjudgements?・・・・・ 判決を受け入れたのであり、裁判を受け入れたのではないとの見解 ・ 講和条約は過去を総括しこれから仲良くしていこうとのものと解釈できる、また東京裁判はjudgements of prononces(宣告)とあるのでjudgementsは判決の意味であるととって、裁判そのものを否定している見方がある        
   パル判決の不備・・・・・・・・・・・ 戦犯を「平和に対する罪」「人道に対する罪」だと規定しているが、これは事後立法でその禁止に反するとの説もある ・ 「平和に対する罪」の構成要素である「共同謀議」は被告全員が顔をつきあわせていないのだからおかしいとの見解  以上東京裁判否定説   
   裁く側にも反省を・・・・・・・・・・ 裁く側が、東京裁判進行中に、アジア植民地支配に乗り出していた ・ この点について裁かれる側であるも堂々と批判する権利はありました ・ でもそういった主張は一切したことありませんでした ・ 恩返しすることにもなったのに (牛村氏談)       
            
            
■リンク集(戦争の反省) :         
戦争責任・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 読売新聞渡邊会長戦争責任を語る  戦争を語り継ごう(軍隊・原爆・責任〜)  語り継ぐリンク集         
   第2次世界大戦・・・・・・・・・・・・ 大東亜戦争の記録  東京大空襲の日記  大空襲の経験を孫たちへ  
   平和への祈り・・・・・・・・・・・・・・ 平和博物館  平和リンク集(沖縄から)  平和のためのリンク集  広島平和記念館  平和教育リンク集
■リンク集(東京裁判・靖国問題) :
条約と裁判・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ニュルンベルク裁判  サンフランシスコ講和条約  〜の11条の意味  ポツダム宣言      
    東京裁判・・・・・・・・・・・・・・・・ 東京裁判  「平和に対する罪」  「人道に対する罪」   パール判事の判決と考えたいこと    
靖国神社問題・・・・・・・・・・・・・・・・・ 靖国神社問題  A級戦犯分祀に対する靖国神社の見解  A級戦犯分祀の検討(日本遺族会)       
    国際的に大事にしないように  靖国問題中国側の言い分  靖国神社とは  靖国神社遊就館の展示