ロシアの歴史(紀元前〜ロマノフ王朝)とプーチンの強気政治  
        
                  (朝日新聞3月30日 ・歴史研究所「ロシア史」 より)   新聞特集などを分かり易く整理

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ロシアとはどんな国 ロシアの歴史 (1)
強気増すプーチン・ロシア
ロシア史における共通意識
 後進国意識・安全保障
 国家主義・上からの革命
 . スラブの遊牧民・ヴァイキング招致
モスクワ大公国〜ロマノフ王朝300年
 ロマノフ王朝各皇帝の功績と失政
 . プーチン大統領の強気発言
強気ロシアはどこに向かうのか
 (同盟・協力機構・北方四島)
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  ロシアとはどんな国    (和田春樹著、朝日新聞社 「ロシア・ソ連」 より) 
■ロシア史におけるロシア人の意識 上記、ロシアの歴史において、ロシア人の意識などの連続性を考えて見ると、次のようなことがいえる       
   後進国の意識がある・・・・・・・・・ 周囲に先進国が多く、自らを後進国にイメージし、発展志向をもつのだが、先進国への同化を恐れ、自らを守り周囲に反発する志向が現れた        
   安全保障への強い執着心・・・・・ これにより、外からの侵略に対する強い警戒心が生じ、安全保障への強い執着心をもつ ・ スターリンの言葉に 「テンポをひきとめることは落伍であり、落伍者は打ち負かされる ・ 旧ロシアの歴史は打ち負かされの記録である ・ モンゴルのハンにやられ、トルコのサトラップに、スウェーデン王に、ポーランド・リトアニア領主に、英仏の資本家に、そして日本の軍閥にやられた ・ われわれは50年乃至100年先進国から遅れていた ・ われわれはこの距離を10年の間に走り抜けねばならない」と。     
   国家主義・国家信仰がある・・・・ 後進国であり、外からの侵略にさらされているとなれば、強力な国家というものが形成されて、支持されていった ・ 西欧的な身分はロシア人にはなく、国家主義がロシア史を貫いている ・ この国家を特別に崇拝する傾向は、ロシア革命によって社会主義体制へ、共産党国家へと進んでいった   
   帝国の観念がある・・・・・・・・・・・ 多民族を支配する帝国となったロシアは、支配国の旧支配者を貴族の扱いにした ・ それら貴族は帝国をなりたたせ、ロシア語を使う皇帝となった ・ 宗教は正教が主導的であるが、帝国内での宗教には寛容であった     
   プラウダとヴォーリアへの夢想・・ プラウダ(正義)とヴォーリア(自由)の実現を期待する心情があり、これは民衆の解放願望である ・ 悪しき貴族がこの意志を拒んでいるという神話を抱き、民衆がプラウダを皇帝に求めて行進した「血の日曜日」、これから20世紀のロシア革命が始まった   
   上からの革命・・・・・・・・・・・・・・・ 以上のような変わらぬ態度があって、ロシア史の発展は「上からの革命」が期待されて繰り返されていった ・ 発展のパターンは下から起こるのではなく、権力をもつ強い指導者に待望された ・ 「上からの革命」は16世紀のイヴァン雷帝、18世紀のピョートル大帝、19世紀のアレクサンドル二世、その後の2つの革命を挟んで、1929年にスターリン革命、そして最後がゴルバチョフのペレストロイカとなった ・ ペレストロイカは民主化を内容としており、旧権力の崩壊を招いた ・ この崩壊で「上からの革命」は終わりを告げたと見えたが、ここプーチン政権になってまた戻っているようにも見える ・ 上述したロシア史における意識の連続性はまだ断ち切れていないようである ・ もう少しロシア史を見守らなければならないであろうか
  ロシアの歴史(1)   (和田春樹著、朝日新聞社 「ロシア・ソ連」 ・ 歴史研究所「ロシア史」 ・ Wikipedia より) 
   
■遊牧民時代からスラブ族ルーシ国の誕生 (紀元前〜13世紀) : 歴史研究所「ロシア史」 より)  
スラブの遊牧民がステップで生活・・・ 紀元前のロシアの限りない大地、草原(ステップ)には、スラヴ人と呼ばれる遊牧民がいた ・ これに加え、南部にはギリシアの商人などが植民地を建設していた              
    フン族が南に大帝国建設・・・・ 4世紀になって、ヨーロッパ史上に大きな影響を与えた フン族が侵攻し、ウクライナを中心とした広い地域を支配した(アッティラ王) ・ AD453年、アッティラ王の病死により帝国は崩壊した  
    10世紀までハザール族が・・・・ フン帝国崩壊後、アヴァール族(モンゴル系)、マジャール族(ハンガリーの主要民族)、ハザール族(トルコ系)などもやってきて、このうちハザール族系が10世紀まで、シベリアからバルカン半島までのかなり広い範囲に居住し勢力を持った           
    スラブ族はリーダを求めた・・・・ 戦国の世において、スラブ族は強いリーダーを求め、AD862年にヴァイキングの首長リューリクを招き入れた ・ そしてロシアで初めての国家、ノヴゴロド公国が誕生し、ノルマン人とスラブ人の混血が進んだ ・ 彼らはルーシと呼ばれ、これから後にロシアという名称も生れる      
キエフ・ルーシ大公国建国・キリスト受容 (882〜1240)          
    キエフ・ルーシ大公国の誕生・・ リューリクの死後、遺言により一族の有力者オレグが後継者となり、キエフを占領し、首都になる(キエフ・ルーシと命名) ・ キエフ・ルーシ大公国が誕生した ・ 彼は更に、コンスタンティノープルへ侵攻し、商業上有利な条約を結ぶなど勢力を拡大して行った         
    キリスト教を受容・・・・・・・・・・・ 一族が世襲し1240年までの250年このキエフ・ルーシ大公国が繁栄した ・ 988年にはウラジーミル大公がキリスト教を受け入れた ・ 元々そのギリシャ正教は土着主義を原則としていることもあり、典礼はスラブ語で行われた ・ ロシア正教として開花していった          
    キエフ・ルーシ大公国の終焉・・ 繁栄を極めた後、キエフ・ルーシは分裂をはじめ、自治共和国となり住民自身の統治が行われるようになって、衰退していった ・ この頃からポーランドやドイツ騎士修道会などが侵攻し、そしてチンギス・ハンの孫バトゥを総司令官とするモンゴル軍が、ロシアを次々と征服した ・ キエフも1240年に占領された             
             
■モスクワ大公国〜ロマノフ王朝へ (14世紀〜17世紀) :    (歴史研究所「ロシア史」 より)           
モスクワ大公国の誕生・・・・・・・・・・・・ 14世紀後半、ハン国は混乱と分裂の時代にはいり、ロシアへの支配も弱まった ・ そして1380年、モスクワ大公国ドミトリー・ドンスコイ(1359〜89年)を中心とするロシア諸公軍に敗北 ・ 以後、ロシアはモスクワ大公国となって発展 ・ ロシア正教の本拠地もモスクワに移った    
    モスクワの地に・・・・・・・・・・・・・ モスクワはキエフ公国時代には小さな村でしかなかったが、14世紀にキプチャク・ハン国に勝って、イヴァン1世がモスクワに国をつくった ・ モスクワ大公国(&ロシア正教会)は、ローマ帝国の後継を自認し、イヴァン4世(1533〜84年)はツァーリ(皇帝)を名乗った ・ イヴァン4世の時代はまさにモスクワの最盛期、「第3のローマ」と呼ばれた ・ イヴァン4世は怒り易く怖かったので雷帝と呼ばれた   
ポーランド王国・・・・・・・・・・・・・・・・・ ここまではリューリクの血筋が王位を継承してきたが、イヴァン4世の長男が病弱で子供を残さず死ぬと、義理の兄のボリス・ゴドゥノフがツァーリになる ・ところがイヴァン4世の末っ子ドミトリーの暗殺疑惑が発生、ポーランド王国・リトアニアの支援で偽ドミトリーが登場して、ボリスの死後にモスクワを占領し、ツァーリとなる          
     農民反乱の発生・・・・・・・・・・ このような動乱時代に突入し、偽ドミトリーも貴族の反乱で殺害されて、一時ポーランド国王の支配下に置かれる ・ 農民の反乱も多発する 
国民軍ロマノフ王朝が誕生・・・・・・・・ こうした困難を打開したのが国民軍で、1612年結成されモスクワに侵攻して、ポーランド軍を追放する ・ そして1613年その全国会議でミハイル・ロマノフをツァーリに選出し、ロマノフ王朝が誕生する                    
               
■300年続いたロマノフ王朝(ロシア帝国) (1613年〜1917年) : (歴史研究所「ロシア史」 より)         
ロマノフ王朝初代ツァーリモスクワ大公

全国会議においてミハイル・ロマノフはツァーリに選出されたが、彼はまだ16歳であった ・ モスクワ総主教であった父が摂政を行った ・ ミハイル自身は意志が弱く、また病弱であったため、政治は自ら進んではほとんど行わなかった         

    農奴制で農民反乱・・・・・・・・・ ロマノフ王朝は農奴制を強化して、大土地所有者と土地を持たず隷属する農民をつくった ・ これで、大土地所有者は、多くの土地を搾取しようとし、1670年コサックの首長ステンカ・ラージンと農民が合流して反乱皮切りに、たびたび反乱が起きた            
ピョートル大帝でロマノフ王朝に転機・ 1682年ピョートル1世が異母兄のイヴァン5世と共同統治として帝位につく ・ 1696年にイヴァン5世が没した後、単独の皇帝となる ・ その後ピョートル1世の下でロシアは大発展を遂げる
   ピョートル大帝自身技術を勉学・ ピョートル自身がヨーロッパから数学や技術、機械や軍事・造船などの技術を学び、それらを生かして、ロシアのヨーロッパ化を進めた ・ 1696年には、河川艦隊と呼ばれるロシア初の海軍を作り ・ オスマン帝国から黒海の北部アゾフ要塞を攻略し、地中海への窓口を確保 ・ 海軍を強化し、1700年にはスウェーデンへ侵攻した(スウェーデン戦争または北方戦争という)    
   北方戦争勝利でバルト海確保・・ ピョートル大帝率いるロシアはポーランド、デンマークと同盟を結び、スウェーデン戦争(北方戦争)を開始する ・ スウェーデンはデンマークに侵攻し首都コペンハーゲンを占領し、ロシア軍は訓練不足で、スウェーデン敗れる ・ ポーランド貴族達が反乱を起こし、スウェーデン軍はその鎮圧に5年要する間、ピョートル大帝は農民達の徴兵令を出し、軍隊を再編強化               
   サンクト・ペテルブルクへ遷都・・・ バルト海沿岸サンクト・ペテルブルクに軍港を建設 ・ 1712年に首都もサンクト・ペテルブルクへ遷す ・ ピョートル大帝の重税でウクライナに反乱が起こり、1709年、スウェーデン+ウクライナ軍とロシア軍と戦い勃発あるも、ロシア軍勝利 ・ さらにロシア海軍のバルチック艦隊は1714年にスウェーデン海軍を破り、17 21年ニスタット講和条約によりロシアはバルト海沿岸の大部分を確保した ・ 家庭では不和の多かったピョートル大帝は、1725年53歳で病死した    
女帝時代へ(女帝エカテリーナ1世)・ ピョートル大帝の後継者となったのは、妻のエカテリーナ1世(ロシア初の女帝) ・ しかし混乱が続き、37年間に6回ものクーデターが起こり、4人の女帝と3人の皇帝がめまぐるしく入替わった
    女帝エリザヴェータ積極外交・・ そのうちエリザヴェータは在位1741年〜1762年で、モスクワ大学を創設はあるも内政の殆どは側近に任せ、自らは舞踏会や演劇に没頭した ・ 一方、対外政策は積極的で、イギリス・オーストリアと同盟を結んで、スウェーデン、ポーランド、オスマン帝国と対立したり、七年戦争でオーストリア・フランスと手を組み北ドイツ・ベルリンの占領に成功した ・ しかし、ドイツ・プロセイン王国を降伏させるあと一歩のところで死去する       
   ピョートル3世はドイツ好き・・・・・ エリザヴェータの後継者にはピョートル3世(エリザヴェータの姉の息子)が即位した ・ 彼は元々ドイツで生活し、妻もドイツ人であって、プロセイン王国のフリードリヒ大王のファンであり、彼と講和を結んでしまう ・ しかし彼の妻はドイツ人でしたが、夫ピョートル3世との行動は正反対で、ロシア語を学び、名前もロシア名エカテリーナに変え、ドイツかぶれの皇帝に対し、貴族、さらにギリシャ正教会からも不満の声を聞いて、ピョートル3世と離縁、追放までした            
   女帝エカテリーナ2世が夫追放・ エカテリーナ女帝は第8代ロマノフ皇帝として即位し1762〜96在位した ・ ロシア帝国の領土をポーランドやウクライナに拡大し、大帝と呼ばれた ・ 1780年アメリカ独立戦争の折、アメリカへの輸出を推進したり、ヨーロッパとの武装中立同盟を結ぶなどもした ・ エカテリーナ2世はボリショイ劇場を創設し、エルミタージュ美術館(離宮)の基礎をつくるなどもした ・ ロシアの近代化に少なからぬ貢献をした ・ 1789年のフランス革命には脅威を感じ、晩年には国内を引き締め、自由主義を弾圧した          
ナポレオンとロマノフ王朝・・・・・・・・・ エカテリーナ2世の後継者は息子のバーヴェル1世(在位 1796〜1801年)ですが、馬鹿君主で暗殺される ・ ナポレオンが皇帝の座に就くと、パーヴェルはナポレオンのファンになってしまい、赴任元帥などを召還したり、ナポレオンと同盟を結びインド遠征など、馬鹿外交をした        
   アレキサンドル1世対ナポレオン パーヴェル1世暗殺後は、エカテリーナ2世のお気に入りの孫アレクサンドル1世が即位(在位 1801〜25年) ・ ナポレオンと手を切り、再びイギリス、オーストリア、スウェーデンと同盟を結び、フランスに対抗 ・ そのためナポレオンの侵攻を受け、1807年のフリートラントの戦でナポレオンに敗北 ・ ティルジット条約が締結、今度はロシアはイギリスの経済封鎖である大陸封鎖令に参加しイギリスと戦うことになるなど揺れ動いた ・ ところが1812年、ナポレオンはロシアの背信を口実に、大軍をひきいてロシアに遠征してくる ・ ロシア軍は焦土戦術、自分たちの都市を焼きながら後退し、9月にモスクワ陥落するが ・ この焦土作戦が効あって、ナポレオン軍はどこの都市でも補給が受けられず、さらに、厳しい冬、冬将軍の到来などで撤退を余儀なくされる ・ このロシア侵攻のミスでナポレオンは没落 ・ 1815年ナポレオン後を話し合うウィーン会議において、ロシア(アレキサンドル1世)は主導的な役割を果たした           
自由主義廃絶・戦争頻発・・・・・・・・・ アレクサンドル1世の後継者は、弟のニコライ1世(在位1825〜55年) ・ ニコライ1世の息子のアレクサンドル2世(在位1855〜81年) ・ その息子のアレクサンドル3世(在位1881〜94年) その息子のニコライ2世(在位1894〜1917年・ロマノフ王朝のラストエンペラー)へと継承   
   ニコライ1世 自由主義廃絶・・・・ ニコライ1世は、自由主義運動の取締まりのため、秘密警察と検閲政策を実施 ・ 多くの知識人や作家を流刑 ・ 「罪と罰」の作家ドストエフスキーも流刑され、シベリアで強制労働をさせられた            
   アレキサンドル2世 農奴解放・・ ロシアはトルコをはじめ周囲の国と戦争を休みなく繰り返してきた ・ ニコライ1世のときに始まった 大規模なクリミア戦争があった ・ イギリス、フランス、オスマン=トルコ帝国、サルデーニャ王国(イタリア)の4カ国連合とロシアとの間でたたかわれた戦争(1853〜56年) ・ 1856年アレキサンドル2世、形勢不利とみてパリ講和条約に調印 ・ 敗因は国政にありという訳で、アレクサンドル2世は、国内改革に力を入れる ・ 道路鉄道などインフラの整備、農奴の解放などをした ・ また、アレクサンドル2世は身体刑の廃止、地方自治の確立、司法制度や教育制度の改革、国民皆兵の制度化、警察制度の改善などを行い ・ また1877〜78年のロシア・トルコ戦争を勃発させ大勝利をおさめ、オスマン・トルコ帝国を屈服させたアルメニアなどを割譲するサン・ステファノ条約調印
   アレクサンドル3世 投獄容易化・ 臨時措置法(疑わしいきは投獄、追放、出版の検閲を容易化)をつくり、大学の自治も大幅に削減 ・ 民衆に教育不要と初等教育軽視 ・ 父親とは正反対の後退政策の実施によりロシアの文盲率が80%に低下した           
   ニコライ2世 ロマノフ最後の皇帝            
      日露戦争・・・・・・・・・・・・・・ ニコライ2世は東方への領土拡大を目指し、日本と戦争をする準備を始めます ・ そのような中、日本は宣戦布告なしにロシア艦隊が停泊する旅順と、朝鮮の仁川を急襲 ・ ロシア太平洋艦隊の半分が倒されて、戦争となる ・ 一方戦争は、乃木将軍による旅順攻略、ロシアが誇るピョートル大帝以来のバルチック艦隊の長旅疲れによる対馬で東郷平八郎連合艦隊への敗北(1905年5月)となる ・ アメリカ仲介のもとポーツマス条約締結 ・ 政府への不信が徹底的となる ・ この戦争が国内経済に深刻な打撃を与え、反政府組織・運動に火をつけ、レーニンやブレハーノフ達の社会民主党と日本の社会主義者達の結びつきが強くなる           
      デモが広がった・・・・・・・・・・ 血の日曜日事件(1905年、ニコライ2世への労働者デモで発砲100人が死亡) ・ バルチック艦隊敗北で水兵たちも反乱を起こす ・ などなど方々で階層・身分の人達が「集会」を行うようになった ・ 集会とか、評議会といった意味の言葉を「ソヴィエト」という          
      第1次世界大戦・・・・・・・・・ サラエボ事件をきっかけに1914年に第一次世界大戦勃発 ・ オーストリアとドイツに宣戦布告したロシアは、オーストリア方面では勝利したものの、ドイツ戦では敗北が続き、国内では苦しい生活で不満が高まった           
      ロマノフ王朝の終焉・・・・・・

1917年2月23日に革命運動が勃発(2月革命) ・ これによってロマノフ王朝が崩壊 ・ 国会の解散を皇帝に命じた議長ロジャンコは、議員12名からなる臨時委員会を設置 ・ 皇帝への忠誠にも関わらず、ロジャンコは翌日早朝委員会をもって政権を掌握 ・ 1905年と同様なソヴィエトの結成が呼びかけた ・ 数年間の革命内戦を経てソヴィエト連邦の設立へ(1922年)

          
                            この先 近代史は 次回(5月の特集)で
   

  強気ますプーチン・ロシア   (2007年3月30日朝日新聞より)  
■プーチン大統領の強気の発言 :         
主権的民主主義があるべきだ・・・・・・ 伝統的発展に応じ、外部に強制されない独自の「主権的民主主義」で       
   欧米の批判(メディア統制??) ・・・メディア統制・知事公選の廃止など、選挙が形骸化している      
エネルギーを圧力にしてはいない・・・ エネルギーを圧力や脅しにつかったりはしない ・ 市場原理で動いている          
   欧米の批判(国により価格変動) ・・・相手国の関係により、価格変動をさせたり供給をとめたり、エネルギーを武器にしている         
石油採掘に多くの外国資本が参加・・ 石油採掘では欧米こそがロシア企業の進出を不当に規制している         
   欧米の批判(外国企業規制)・・・ ・・・エネルギーなど重要産業の国家統制を進め、外国企業の参入を規制している        
               
■強気ロシアはどこへ向かうのか :          
プーチン強気発言の背景・・・・・・・・・ 主力産業のエネルギー資源が高値回復で推移している ・ イラクでの米国の単独行動主義の破綻、国際批判などが背景としてある        
     米一極支配に対抗の構え・・・ 上記を背景にして、欧米に対しロシア独自の利益と主張を強硬に申し立てていく姿勢を示した         
欧米を揺さぶってきている・・・・・・・・・ 米国は変わったと認識しいろいろな要求をロシア側から出し始めている         
     さまざまな要求をし始めた・・・ 欧州へのミサイル防衛システム配備の反対 ・ NATO拡大への反発 ・ 欧州へのロシアエネルギー規制の反対         
     独自行動も始めている・・・・・・ イランなど天然ガス産出国と組み、OPECに似た機構を作ろうとしている         
日露関係は強化へと向かっている・・・  (ベールイ新駐日大使談)        
    天然ガスと石油のパイプライン 液化天然ガスの日本への提供は08年から始まる ・ また東シベリア太平洋石油パイプライン建設事業は13年までに終る       
    北方領土問題・・・・・・・・・・・・・ 日露の総合的関係の発展のみをとおして解決が可能だ      
    世界は柔軟な組織の時代・・・・ 日米同盟・中ロ同盟などというような対立の時代ではない、これからは、上海協力機構東アジア共同体などの柔軟な組織の時代になっている