東西より侵攻をうけたトルコの歴史 面白く分かりよく 
               

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トルコの歴史年表   トルコの概略史
トルコの詳解
石器時代〜青銅器時代
トロイ〜ヒッタイト時代
諸王国・東ローマ〜現代
 . ヒッタイトの栄華
アレキサンダー大王
セルジュクトルコ
 . トロイ九市
ビザンチン帝國
オスマントルコ帝國
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  トルコの歴史    (Wikipediaより)  
■トルコの歴史年表 :   
概要年表・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
年代 概要
BC60万年〜BC8000 旧石器〜中石器時代
BC8000〜BC5000 新石器時代
BC5000〜BC3000 青銅器時代
BC3000〜BC2000 前期青銅時代
BC2000〜BC1200 中後期青銅時代
BC1800〜BC1275 トロイ第6市時代 トロイの木馬などで有名なトロイ戦争があった
BC1660〜BC1190 ヒッタイト帝國 人類初の鉄を作る・黒海北のアトリア人・首都ハットゥシャ
BC1200〜BC 700 後期ヒッタイト諸国
BC1000〜BC 600 フリギア王国 西隣バルカン半島からのフリギア人 ・ アンカラを首都に
BC 900〜BC 600 ウラルトゥ王国 ギリシャ、アッシリアなどから進出 ・ 諸王国ができた
BC 600〜BC 545 イオニア文明 ギリシャの一種族イオニア人がエフェスなどに文明を開花
BC 575〜BC 545 リディア王国 インド(ヨーロッパ語族)のリディア人・トルコ西方一帯統治
BC 546〜BC 334 アケメネス朝ペルシャ イランに興った王朝・インド付近、トルコ、エジプトを支配下
BC 334 マケドニア王国 マケドニアのアレキサンドロス大王の支配下になる
BC 330〜BC  30 ヘレニズム文化時代 アレキサンドロス死後、ペルガモンなどの小王国が多数誕生
BC  30〜AD 330 ローマ時代 首都イスタンブール・ローマ帝国分裂・東ローマ帝国で繁栄
AD 330〜AD1453 ビザンチン帝國 首都イスタンブール ・ ローマ人とこだわったギリシャ人
AD1071〜AD1300 セルジュクトルコ 首都コンヤ ・ イラン、イラクからのイスラム王朝が支配
AD1299〜AD1923 オスマントルコ帝國 首都イスタンブール ・ 騎馬系遊牧民のトルコ族がリーダ 
AD1923〜 トルコ共和国 首都アンカラ ・ 90%はトルコ人(ギリシャ+アジアアラブ)
トルコの地図(ツアーコース)・・・・・
トルコはアジア西端のアナトリア(小アジア)と、ヨーロッパ、バルカン半島南東端の東トラキアからなり、北は黒海に、南は地中海、西はエーゲ海に面する共和国です 
6000万人あまりの国民の99%はイスラム教徒で、各地にモスクが多数見られます

古代のトロイ、ヒッタイト時代を経て、ローマ帝国、モンゴルなどの支配があって、近世にはオスマン帝国が勢力を拡大し華やかな都市国家ができて、遺跡や多くの文化遺産が残された

面積,日本の2.07倍
人口,7206万人
               
       
■トルコ概略史大きな流れ :      
BC6500年 集落がつくられた・・ チャタルヒュユックに集落ができ、人々は日干し煉瓦の家に住んでいた   
BC2600年トロイに都市ができた エーゲ海の東岸、トロイに都市が築かれ、侵略など受け9度にわたり構築されていった ・ 1市、2市〜9市と呼んでいる ・ トロイは第6市(BC1800〜BC1300)のときに栄えた ・ その後トロイ戦争に破れて第7市へ、アレキサンドロス大王の時代に第8市、ローマ帝国時代に第9市へと都市は続くが、東に帝國ができていて、ハットゥシャ、アンカラなどが首都になっていた  
BC1500〜ヒッタイトが栄華・・ BC1500〜BC1400には、ハットゥシャシュに首都をおいたヒッタイト文明が栄えた ・ 国力は鉄器の製作であり、その鉄器技術は国外には秘密にされた ・ BC1300頃にはエジプトと戦うほどの強国であったが、BC1200頃トラキア人により滅ぼされた   
BC1100〜・・・・・・・・・・・・・・・・・・ トロイの南エンフィスには、BC1500頃からイオニア人が定住(ギリシャの主要な種族) ・ BC700頃リディア王がこの地にアルテミス神殿(ギリシャ神話・狩猟の女神)を建立した   
BC600〜 ペルシャ帝國が支配・ 小王国が分立しますが、紀元前6世紀半ばに、アナトリア一帯はペルシャ帝國の支配下に入ります  
BC334〜 アレキサンダー大王・ 強大なペルシャ帝國もBC334に、マケドニアのアレキサンダー大王によって滅ぼされます ・ このときに、ギリシャの文化とオリエントの文化を取り入れたヘレニズム文化が生まれます   
BC323〜 アレキサンダー没後・ アレキサンダー大王亡き後は、アナトリア西部にペルガモン王国などの小国家が誕生します ・ ペルガモン王国はギリシャの文化を取り入れ、数多くの神殿や劇場を建設した ・ その遺跡はベルリンのペルガモン博物館で見られる   
BC30〜AD330ローマ帝国支配 BC30までにアナトリアの小国はローマ帝国の支配下になる ・ ローマ帝国のコンスタンティヌス帝王は首都をビザンチン(=コンスタンチノープル=イスタンブール)におき、首都名をコンスタンチノープルとします   
AD395〜 ローマ帝国分裂・・・・ AD395年にローマ帝国は東西に分裂する ・ 東ローマ帝国(ビザンチン帝國)は首都をコンスタンチノープルにおく ・ ビザンチン帝國はエジプト、シリアからイタリア、スペイン南部至るまで勢力を伸ばし、コンスタンチノープルにはギリシャ正教の大本山がおかれた ・ ビザンチン帝國は1453年オスマントルコによって解体されるまで10世紀以上続いた
  AD1037年〜 セルジュクT・・ 中央アジアに住んでいたトルコ系セルジュク一族は西方へ遊牧生活を続けながら移動し、ビザンチンの一部であった東アナトリアへ進出した ・ 中央アナトリアのコンヤを首都とし、すぐにアナトリアのほぼ全域を領土化し、歴史上初めてアナトリアの地にトルコ民族が定住することとなった ・ セルジュク族のアナトリア定住はトルコの歴史において大変重要な一歩となった ・ セルジュク族はイスラム教であったが、その地にあったキリスト教、ユダヤ教にも寛容であり、新たにモスクや神学校をつくり、融合した文化を繁栄させた   
  オスマントルコの芽生え・・・・・ そんな中、アナトリア北部ではトルコ系民族の別の一族がオスマンを首長としてセルジュク一族からの独立を成し、次第に勢力を強め、これがのちに600年以上続くオスマントルコ帝国の基礎となる ・ その独立をもってセルジュクトルコは消滅する   
1453年〜 600年オスマントルコ オスマン(1258〜1326)に率いられたオスマントルコは西アナトリアから次第に勢力を拡大し、1453年コンスタンチノープルを占領、ビザンチン帝國は滅亡します ・ オスマントルコはその後200年文化的に勢力的に絶頂期を迎え、バルカン半島、東ヨーロッパ、西アジア、北アフリカまで進出しました ・ しかし18世紀に入ると、ロシアと戦い、その後次第に衰退、1829年にギリシャが独立、1878年にはルーマニア、ブルガリア、1839年エジプト、20世紀にはアルバニア、マケドニアがそれぞれ独立していきました   
1922〜23年 トルコ革命・・・・・・・・ 第一次世界大戦後オスマン帝国が解体し、ケマル・アタテュルク指導者になってトルコ共和国樹立の革命運動が起こった ・ そのままトルコ共和国の初代大統領になり、トルコ民族の国教をイスラム教から近代的、西欧的、世俗的に政教分離をはかった ・ 言語はオスマントルコ時代のアラビア文字表記からラテン文字表記に改めた ・ 女性参政権などの近代化政策も断行した  
1945年〜 トルコ共和国・・・・・・・・ 第二次世界大戦では中立を維持したが、1945年連合国の勝利が確定的になると連合国側に加担、日独へ宣戦布告した ・ 1950年には北大西洋条約機構に加盟し反ソ連親西欧路線ととった ・ 1960年には経済不振からクーデターが起こり、メンデレス大統領は失脚、処刑された ・ その後にもクーデターがあったり、親ソになったり親米になったり、米国に基地を提供したりしなかったり、流動的な政情が続いている   
       
■トロイア文明 :   
BC2600頃〜BC1200頃・・・・・・ トロイア文明はクレタ島、ギリシャ本土の東南部、トルコの西の一部にあった文明で、エーゲ文明の一部である ・ トロイアの地域は今のトロイ付近であるが、その最盛期はBC2000年頃と思われる ・ そこには9市の住居址(市と呼ばれている城砦)が重なってあった ・ 第1市BC3000年〜BC2500年に、すでに城壁をつくられ、金属をつかう文化をもった ・ 第2市のBC2500年〜BC2200年の時代には、城壁は高く堅固なものとなり、黄金製品が使われたり、青銅器などの武器もあった ・ ドイツの考古学者シュリーマン(1822〜1890)が発見した ・ トロイア文明より      
   第1市〜第9市・・・・・・・・・・・ この第2市の崩壊後、第3市、第4市、第5市(BC2200年〜BC1800年)と再興されて第2市の文化が続いたが、貧弱な住居址である ・ 第6市(BC1800年〜BC1300年)はトロイアの第二最盛期であって、最大の城壁の時代である ・ そして第7市(BC1300年〜BC1100年)トロイア文明の末期であり、有名なトロイア戦争はこの時期に起こった ・ 第8市はアレクサンドロス大王の時代でギリシャの植民地になり、第9市ではローマ時代となりこの地もイリオンと呼ばれるようになった ・ BC400年までこの地栄えたようだが、城砦しかない    
   トロイの木馬のお話・・・・・・・ 「トロイの木馬」はギリシャ神話の「トロイ10年戦争」を人間の話に置き換えた作品 ・ アキレスやトロイの木馬が出てくる ・ トロイの木馬の話はトロイア戦争の一場面である ・ トロイア第6市の陥落の物語である    
    お話の概要・・・・・・・・・・・・・ トロイアの王子パリスが女神たちにそそのかされてスパルタ王妃を誘拐したことに端を発したトロイア戦争10年目での話 ・ ある日、トロイの城壁を埋め尽くしていたギリシャ軍は、ギリシャの守護神アテナにささげる木馬を残し、攻略をあきらめ撤退してしまった ・ トロイア人は戦争に勝ったと大喜びし、ギリシャ軍の残した木馬を、戦争の勝利品とばかりにトロイアの城壁の中に引き入れた ・ 大きな木馬は城門を通らなかったため一部城壁まで壊して取り込んだ ・ そしてほとんどのトロイア人は、祝宴をあげ酔いつぶれた ・ ところがその木馬の中からギリシャ兵が這い出し城門を開放、ここぞとばかりに、見せ掛けの撤退で待機していたギリシャ軍が一気になだれ込み、トロイア人を皆殺しにし、第6市を陥落させた           
             
■ :             
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■東ローマ帝国(ビザンチン帝國) :           
395年 ローマ帝国が分裂・・・・・・ 330年にビザンティウムはローマ帝国の首都となりコンスタンティノポリスと改名された ・ 395年にはローマ帝国が東西に分裂し、コンスタンティノポリス(現イスタンブール)は文化的にも大繁栄した  
7世紀 イスラム、スラヴが侵攻・・・ 7世紀初頭、勃興してきたイスラム帝国やスラヴ人の侵攻をうけ占有領域は縮小した ・ また西欧諸国やローマ・カソリック教会とも対立を深め、地中海周辺の大帝国から、ギリシャ・トルコ周辺の国家へと変貌、公用語もラテン語からギリシャ語へと改められた ・ 現在のトルコに当たる地域は、対イスラムの前線としてこのころから重要な役割りを果たしてきている 
10世紀には国力回復・・・・・・・・・・ 9〜10世紀になると、東ローマ帝国は国力が回復し再攻勢にでるようになる ・ 11世紀初頭にはバルカン半島全土や北シリア、南イタリア、アルメニアなどを支配する大帝国に復活する ・ 11世紀半ば頃になると国力が衰え、東からのテュルク族の侵攻をうけるようになる ・ セルジュクトルコも新興する  
       
■ビザンチン文化 :          
東西混合の文化・・・・・・・・・・・・・・ 古代ギリシャ、ヘレニズム、古代ローマにキリスト教、ユダヤ教、イスラム教などの影響をうけた独自の文化である ・ 正教を信仰する諸国、および西欧のルネサンスに多大な影響を与えた ・ 建築技術などはイスラム文化と西欧文化が相互に影響しあっている ・ ギリシャ人が多くをしめてキリスト教を国教とした東ローマ帝国であり、ヨーロッパの文化の二大基盤といわれる「ヘレニズムとヘライズム」が融合して形成された
ビザンチンの文学・・・・・・・・・・・・・ ギリシャ人が多数しめていた東ローマ帝国では古代のギリシャ・ローマの古典作品が伝えられてきた ・ それらの写本が帝國滅亡後イタリアなどに伝えられ、ルネサンスに大きな影響を与えたとされている ・ 結果として現代まで古代ギリシャ、ローマの古典作品が残されることになった            
ビザンチン美術・・・・・・・・・・・・・・・ 古代のギリシャ美術、ヘレニズム美術、ローマ美術を継承しつつ、東方的、キリスト教的要素を含んだ独特な体系の美術 ・ 優れたモザイク画を生んだ ・ 宗教画は偶像崇拝が批判されたため、様式化され写実的描画は少ない ・ 古代ギリシャ文化の復興をうけたフレスコ画などが描かれた ・ 宗教画の特徴のみがビザンチン美術の特徴として伝わってしまっている      
ビザンチン建築・・・・・・・・・・・・・・・ ローマ建築と様式的に大きな差はなく、正教の教会建築に、モスクの建築に取り入れられている ・ ローマの高度な建築技術である高いドームなどもある ・ 初期のローマ風建築から7世紀〜9世紀になるとイスラム帝国、諸民族の侵入から暗黒時代に入る ・ 9世紀以降は聖像破壊運動なども起こり、大きな教会は必要とせず、小さな教会堂が主流となった ・ 初期ははなやかであったが、中期以降は消滅することとなった    
              
■オスマントルコ帝國 :             
軍制と統治システム・・・・・・・・・・・・ 戦士は元東ローマ帝国の軍人らを中心に騎兵、歩兵で編成され、それらの複合戦術がよく、軍事力が著しく向上した ・ 騎兵を駆逐して巨大な常備軍をもったが、この時代欧州にはまだ常備軍はほとんどなかった ・ オスマンは当初から海軍を重要視し、エーゲ海、地中海、黒海などに面する地域を併合、それぞれの地域に艦艇を停泊する造船所を造り、領土を拡大していった ・ やがて紅海、アラビア海、ペルシャ湾、インド洋へも進出、事実上イスラム社会の防衛者となり、キリスト教世界と対するようになった ・ 帝國の領土は直轄州、独立採算州、属国などからなった ・ 現地の有力者に政治は任せられ、中央政府に上納をした 
オスマン帝国のひとびと・・・・・・・・ 11世紀以降アナトリアのイスラム化の結果、ギリシャ正教徒、アルメニア教会派も多数存在し、ユダヤ教も少数存在した ・ 15世紀にはイベリア半島でユダヤ教排斥傾向が強まり、ユダヤ教教徒らが多くアナトリアに移民した ・ オスマントルコ下では多種の宗教が容認されていた        
オスマンの文化・・・・・・・・・・・・・・・ 神学や哲学のような形而上学問では新しい動きはなかったが、数多くの美術品を残した ・ 陶芸は16〜17世紀に鮮やかな彩色陶器が生産された ・ この時代につくたれたモスクや宮殿の壁に飾った色鮮やかな青色のタイルは現在の技術では再現できないという ・ また美術の分野ではアラビア文字の書道が発展し、絵画では中国の技法で美しい押絵が描かれた
オスマンの建築・・・・・・・・・・・・・・・ 建築はイスラムの伝統様式を発展させ、オスマン建築と呼ばれる独特の様式を生み出した ・ 17世紀に建てられたブルーモスクが有名である ・ 宮殿では伝統的な建築のトプカプ宮殿や、バロック様式とオスマン様式を折衷させたドルマバフチェ宮殿が有名である  
     
トルコ共和国 :              
トルコ共和国の設立・・・・・・・・・・ 現在のトルコ共和国は、オスマントルコ帝國の軍人であったムスタファ・ケルマが第一次世界大戦で頭角を現し、侵入したギリシャ軍などを破ってトルコ共和国を設立した ・ ケマルはオスマン帝国(イスラム系の帝国)の諸制度を解体し、ローマ字などを使う近代施策を実施して、近代国民国家であるトルコ共和国を作った      
    西側陣営へ、EU未承認・・・ 第二次世界大戦では中立を守っていたが、米国など連合国側の要請により大戦末期になって枢軸側に宣戦布告をした ・ 戦後NATOにも加盟し、西側陣営の一国となって歩んでいる ・ EU/ECへの加盟も申請しているが、加盟交渉は進んでいるもののまだ未承認である           
ギリシャとの関係・・・・・・・・・・・・・・ ギリシャは同じNATO加盟国であり、トルコが目指すEUの加盟国でもあるが、ギリシャとトルコは対立することが多い ・ ギリシャはもともとトルコ共和国の前進であるオスマン帝国からギリシャ独立戦争で分離独立した国であり、トルコとの間で戦争を重ねてきた ・ 国境問題、キプロス問題でしばしば対立した             
EU加盟への問題点・・・・・・・・・・ @人権保護制度の遅れ(離婚時の女性に対する処罰規定)(クルド人差別問題)
Aトルコ系移民の問題(現在もドイツを中心としてトルコ系移民が非常に多く、自由化されると経済圧迫になる)
Bトルコ驚異の記憶(中東欧諸国はオスマントルコに圧迫された記憶があり、それが消えない)
Cトルコの大部分はアジアに位置するとみられている
D宗教的問題(EUはキリスト教が圧倒的多数であるが、トルコは国民の99%以上がイスラム教徒であり、感情的反発がある)            
      (より)
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