印象派の仲間たち(1) (印象派グループでの関わり) 
              国立新美術館でオルセー展が開催されているので、印象派について2回にわたり記述します

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印象主義   新印象主義
後期(ポスト)印象主義
印象派の名前の由来
創始者マネ、モネの日の出
ピサロ、シスレー、ほかの活動
 . 新印象主義について
スーラ
シニャック
 . 後期印象主義について
なぜ近代絵画の父
ゴッホ、ゴーガン、ロートレック
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■印象派について :   
印象派の草分け・・・・・・・・・・・・・ 1874年4月、伝統的美術展「サロン」の開催同時期に、マネの絵に感銘し、サロンの審査に不満をもった若い画家たちが彼らだけのグループ展を、パリのキャプシー通りにあるナダール写真館を会場として開いた ・ 30名の画家、彫刻家、版画家による無名のグループ展であり、後にいう第1回印象派展である
   印象派の名前の由来・・・・・・ 印象派の名称の由来となったのが、上記第1回の印象派展に出展されたクロード・モネの『日の出-』である ・ 展示会で名称が短すぎるとの指摘を受けて、画家自らが前部に≪印象≫と付け加えた ・ この作風を批評家ルイ・ルロワは美術誌に「印象?たしかに私もそう感じる。しかしこの絵には印象しかない。まだ描きかけの壁紙の方がマシだ。」と嘲笑し、諷刺新聞にも寄稿した ・ この記事によって反伝統のバティニョール派が開催した最初の独立展覧会に出典した画家ら(モネ、ルノワール、エドガー・ドガ、カミーユ・ピサロ、ギヨマン、ベルト・モリゾ、セザンヌ、シスレーなど)は印象派と呼称されるようになった ・ この印象派展は8回行われ、彼らは独自の画風で十九世紀近代絵画を明るい光に溢れる色鮮やかなものへと変貌させていった
               
■印象主義 :          
マネ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ マネは1832年、パリのセーヌ川左岸の一角で対岸にルーブル宮殿を望むボナパルト街で、謹厳なブルジョワの家庭に3人兄弟の長男として生まれた。父は法務省の高級官僚でレジオンドヌール勲章も授与されており、母ウジェニーはストックホルム駐在の外交官フルエニ家の娘であった  ・ マネはブルジョア、インテリにみなから見られた ・ 彼の絵画は着想が古典絵画であるが、それに知的な創造が加味されていた ・ マネは近代美術の創始者であり、印象派の生みの親だといわれる ・ テュイルリー公園の音楽会の絵は黒を使って驚かせたが、この絵の頃から時代の風俗を賞賛する絵を描き続けている
モネ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 「日の出」の代名詞より「印象派」呼称が広く使われるようになったその絵 ・ 本風景の海面、船舶、船の漕ぎ手、煙、そして太陽などの、大気の揺らぎや、海面に反射する陽の光、陽光による自然界での微妙な色彩の変化など観る者がこの風景の印象として受ける独特の感覚はモネの新たなるアプローチであった ・ まさにその絵は印象にふさわしく、瞬間瞬間に失われてしまうはかないもの、水や大気の雰囲気をとらえているが、それまでの絵画がもっていた歴史的、神話的主題を欠いたものであった ・ とのことなどで第1回印象派展は不評に終った
ピサロ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 第1回の印象派展から第8回(最終回)の印象派展まで出展した画家 ・ 8回全てに出展したのはピサロだけである ・ ドガ、モネと同様、印象派展では中核になるメンバーであり、ゴーガンやスーラのよき理解者であり、メンバーをよく纏めた ・ 彼の絵のテーマは戸外の眺めや印象的なものが多かったが、モネのような特徴的、ダイナミズムはなかった ・ どんより雲のかかった空模様の中、移り変わる天候が織り成す光の動きや効果を、繊細かつ大胆に表現しているのが1900年代のピサロの作品の特徴である ・ ピサロの作品 ・ ピサロには広いこころと知性があり、しかも温厚で印象派の仲間達のまとめ役であった ・ 人間が好きで風景を描いても人物を入れることを忘れなかった ・ ピサロの「りんご摘み」にあるようにピサロは働く人物もよく捉えている   
バジール・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ バジールが亡くなってから第1回印象派展が開かれましたが、バジールは印象派にとって要の人物です ・ 彼の集団肖像画に「バジールのアトリエ・ラコンダミヌ通り」というのがあり、印象派の人たちが大勢描かれています ・ この絵で、ステッキを持っているのがマネ、その左がモネ、話をしているのがゾラ、話し掛けられているのがルノワールといった具合です ・ バジールは裕福な家庭の出で、しかもスラッとした長身、なかなかのお洒落だったと云います ・ 正義感が強く心優しく、マネに絶大な尊敬の念を持ち、バジールを通じて多くの画家達が知り合い親交を深めていった、そんな要の人物だったそうです ・ 自分達の力で世の中を変えるのだと、血気あふれる好青年であったが、名をあげることなく早逝してしまった ・ バジールのアトリエにモネやルノワールもお世話になり、2人の窮乏を救ったりもした ・ ほかにシスレー、セザンヌ、ピサロとも付き合った ・ バジールは普仏戦争の最前線で戦士した 
シスレー・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ パリ生まれのイギリス人で、早くからモネ、ルノワールと交遊し、初期の印象派展に出展していた ・ シスレーの風景画はピサロ、モネと比較されるのだが、特徴不足、大雑把などと評価は今一 ・ 普仏戦争で財産を失い、貧乏生活でフランス国籍希望するも貰えずじまい ・ 後半生、他の印象派画家たちが次々と成功していくなか、同じく印象派の創始に参加したシスレーだけが、最後まで、金にも名声にも縁がなかった ・ 印象派で唯一、生前成功できなかった画家 ・ それでも地道に、黙々と、イル・ド・フランスのセーヌ河畔の村々を転々としながら、その風景を描いた ・ シスレーのセーヌ河     
ルノワール・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 風景画、花などの静物画もあるが、代表作の多くは人物画 ・ 初期にはアングル、ドラクロワなどの影響を受け、モネらの印象派グループに加わるが、後年は古典絵画の研究を通じて画風に変化した ・ 晩年は豊満な裸婦像などの人物画に独自の境地を拓いた ・ 後期から作風に変化が現れたので稀にポスト印象派の画家とされることもある ・ 後期ルノワールの作品から「欲女たち」ほか    
ドガ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ドガは1874年以来、印象派展にたびたび出品し(全8回の印象派展のうち、第7回展以外のすべてに参加)、1862年にマネと知り合ってからは「カフェ・ゲルボワ」の画家グループにも参加 ・ 光と影の変化をキャンヴァスに写し取ろうとしたモネのような典型的な印象派の画家たちと異なり、ドガの制作の基盤はあくまでもルネサンスの巨匠や、熱烈に信奉したアングルの画風にあった ・ 古典的手法で現代の都会生活を描き出すことから、ドガは「現代生活の古典画家」と自らを位置付けた ・ バレー、踊り子ほか 
   
■新印象主義 :   
新印象主義、後期印象主義へ・・・ 印象派展は1874年に第1回が行われ、1886年まで8回行われた ・ 8回目の最後の印象派展覧会に参加した画家は、ゴーギャン、スーラ、シニャック、ルドンらだったが、それまでの印象主義に反したものとなった ・ ゴーギャンは「印象派は自分の眼の周りばかりを探していて、思想の神秘的内部へ入り込もうとしない」とそれまでの印象派主義を非難した ・ またそれ以前スーラとシニャックらは「印象派のあまりに感覚的な写実主義は、もっと科学的、理知的な原理に基づかせなければならない。」と考えていた ・ デッサンという礎より ・ 写実主義を継承して発展してきた印象主義を非難し、科学的根拠、形態の純粋性、色彩の純粋性、理論的根拠、内面的表現、などの表現へと変化して行った   
スーラ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ スーラは科学性を重視し、印象派による光の捉え方(いわゆる色彩分割)を、より理論化し、点描法によって、光をとらえることができる、と考えた ・ スーラの始めたこの技法を新印象主義といっている ・ 具体的には、ゲーテやシュヴルールの色彩理論に依拠しているといわれる ・ グランド・ジャット島の日曜日の午後    
シニャック・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ シニャックや一時期であるがピサロもスーラのこの点描技法を使った ・ シニャックは自著「ドラクロワから新印象主義まで」の中で、「新印象主義は印象派と色彩を共有していたものの、視覚混交、筆触分割、科学的な方法によるテクニックが異なっている」と述べている ・ シニャックの点描画 ・ 太陽のスペクトルの基づいた純粋色の視覚混合だけを行った ・ 印象派よりさらに明るい画面、秩序ある構図を科学的にめざした ・ スーラの死後、新印象派のリーダーとなった       
               
■後期(ポスト)印象主義 :            
第8回印象派展・・・・・・・・・・・・・・・ 印象派の展覧会は1886年の第8回を最後に開かれなかった ・ この展覧会にはモネやルノワールは参加せず、ゴーガンやルドンの象徴主義的な作品や、スーラ、シニャック、ピサロなどの点描画作品が出展された ・ いろいろな傾向の出展がされるようになり、印象派に反対する画家達の発表の場にすらなっていった ・ 1880年代後半からの印象派の傾向を後期(ポスト)印象主義とよんでいる ・ セザンヌ、ゴッホ、ゴーガン、ロートレックらであるが、スーラと加えることもある ・ スーラのグランド・ジャット島の日曜日の午後は第8回印象派展に出展された       
セザンヌ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ セザンヌはピサロら印象派の画家たちとも交流があり、第1回印象派展に出展しているが、やがて印象派のグループから離脱し、故郷南仏のエクスにアトリエを構え、独自の探求を続けて行った ・ セザンヌは近代絵画の父と言われる ・ 形を細かく忠実に描く旧来のアカデミックな画法に反発し、また印象派の画家達のような自然を模倣するような画風からも離れ、平面状に色彩とボリュームからなる独自の絵画世界を構築しようとした ・ すべてのものを生命のない造形の現象としてとらえるこの思想は、20世紀のモダニズム形成にあたって大きな影響を与えた ・ セザンヌの「大水浴図」 ・ セザンヌの「女性大水浴図」 ・ セザンヌをエロスの画家とする見方もある ・ ともあれセザンヌの絵画がルネサンス以来の、絵画はかくあるべきとの通念を打ち破り、自由な造形空間の創造を考えるようになったことは大きく、近代絵画の父、コロンブスと言われるのである 
ゴッホ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ゴッホは初期の段階を除けば印象派を出発点としている ・ 即ち戸外での制作、明るい画面、筆触分割(紫を作るなら青と赤、緑を作るなら青と黄色、というように混合色ではなく、純色を小さな点で隣同士に併置することにより混合色にみえるという技法)などの特徴がゴッホの作品にある ・ 新印象派の画家達の視覚混合は比較的細かなものであるのに対して、ゴッホの筆触は長く伸び、うねり、表現主義的である ・ また印象派は自然主義を基本とするが、ゴッホの絵画は写実から離れ、抽象主義的だ ・ 印象派が太陽の照らす戸外を描くのに対して、ゴッホは夜などを描き、神的な世界を描いた ・ ゴッホが印象派展に出展したかどうかは不明である   
ゴーガン・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ゴーガンは第5回〜第8回の印象派展に出展している ・ ゴーガンはポスト印象派の最も重要な画家の一人、ゴッホの死後西洋絵画変革の最大の担い手となった ・ パリの芸術になじまず、見えない世界の絵画化、こころの中にある世界を描いた ・ 絵は単に眼に良いものではなく、人間の生についての問いを語る場であるとしていった ・ ゴーガンのその記念碑的作品「我々はどこから来たのか〜」      
ロートレック・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ロートレックが描く油絵は印象派に近いものがあり後期印象派とされている ・ ただ、風景ではなくナイトクラブのにぎやかな様子を人物たちとともに描いていることが多く独自性がある ・ 油絵もポスター画もロートレックの考えられた構図やユーモアさがこめられている ・ 日本の浮世絵を印象派の画家、マネ、モネ、シスレー、ルノワール、ピサロ、後期印象派のゴッホ、ロートレックなどが好んだ ・ “季節の移り変わりと共に生きる庶民”だが、構成、色彩など多くの点で広重、北斎、栄泉(えいせん)などに触発されている ・ ロートレックの絵画   
              
    
  印象派の諸派画風・様式別分類   次回は下記などを予定しています
    
■写実主義(印象派の前の時代の画風) :           
■バビルゾン派 :          
■ジャポニズム :              
■キュビズム・フォービズム :             
■ダヴェン派 :・・・・・・・         
セザンヌ主義 :              
ナビ派 : 
世紀末・象徴主義(印象派の次の時代の画風) :