印象主義を越えての動き(2) (スーラ〜ゴーギャン) 
                ( 新国立美術館「オルセー美術展」カタログより )

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スーラとシニャック  セザンヌとロートレック
ゴッホとゴーギャン
新印象主義とは
絵に絶え間ない振動
太陽の国の装飾画
 . パレットナイフで光輝きを
平面状に自律したハーモニー
女性の背中に優しさを描く
 . 自画像にはゴッホの内面が出ている
明と暗の星の作品2点
パリを離れて新たなる美学を探求
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  スーラ〜ゴーギャン    (「オルセー美術展」カタログより)  
■新印象派 :   
スーラの作品より・・・・・・・・・・・・・・ スーラの「グランドジャック島の日曜日の午後」は1886年第8回印象派展に出展された ・ この習作でスーラは顔料の明るさを最大限に保ち、絵の表面に絶え間ない振動が続くよう努めている ・ 色彩の混合は目の中で起こす、パレットの上でではない ・ 純粋な目を獲得することに努めた
   日曜日の午後とサーカス・・・ スーラの短い生涯の中での最後の傑作である「サーカス」では、垂直方向に社会のヒエラルキーが強調され、愉しげな馬の乗り手を見ている観客には階段席、体系的な技法によっている ・ 緑と赤、オレンジなどのコントラストが多く見られ、最も印象的であるのは、縦横無尽にはしる斜めの曲線による生命力である
スーラ死後、シニャックがリーダ・・ スーラの早逝は、シニャックを新印象派の卓越したグループリーダへと育てて行った ・ スーラとともに作り上げて行った独自に探求を進めた美学、なかでも色調を強く「大胆に」描くというのがシニャックの特徴である ・ 「井戸端の女たち」は陽気でほどよく田舎風であるこの作品は、パネル装飾になることを望んでいた ・ ドラクロワといった偉大な装飾画家にはなれなかったが、スーラはこれを継承するとシニャックは述べている ・ スーラとシニャックは二人とも太陽の国が好きで、太陽の国の装飾記念碑を建てようとも言っていた   
新印象派主義について・・・・・・・・ 印象派展は第8回を最後にして開かれなくなった ・ この第8回にはモネやルノワールは参加せず、ゴーガン、ルドンの象徴主義的な作品や、スーラ、シニャック、ピサロなどの点描画作品が出展された ・ 印象派に反旗を翻す画家たちの展覧会になってしまったが、この1880年代後半からの動きを、後期印象派(ポスト印象派)と呼び、スーラ、シニャック、ピサロなどの点描画の新印象派も加えることがある          
■セザンヌ主義 :         
セザンヌ独自路線の構築・・・・・・・ セザンヌは駆け出しのころパリに登ったが、サロンには落選に落選で苦難の道を歩んだが、1874年ナダール写真館での印象派発起のグループ展の一人になった ・ ピサロに近かったセザンヌであったが、ロマン主義的な絵画をやめ、しっかり構築された、パレットナイフで塗りこめられた光り輝く風景画と静物画を描くようになった ・ こうして印象派展には2回のみの出展となり、ここでまた批判を受けながら独自の道を進んだ     
   セザンヌの構図・・・・・・・・・・・ セザンヌは家庭が豊かであったお陰で、作品を売ることもなく、サークルとは距離をおいて、パリからも逃げていたが、画家達、批評家達によって見出され、広められた ・ とりわけルノワール、モネ、ピサロによって賛美された ・ セザンヌの作品の構図は、ますます豊かで複雑なものになっていった ・ 伝統的な遠近法空間の奥行きのない平面上に、複数の視点を組み合わせるようになった     
     「台所のテーブル」・・・・・・ 果物と壷の静物画「台所のテーブル」は、描く対象を自由に配列、造形的な実験をしている ・ 奥行きの深い空間に、複数の視点から捉えた対象をたくみに構成している ・ 青みがかった壷は上の視点から捉え、金色の砂糖壷や果物は横からの視点に基づく ・ 大きな籠は宙に浮いたように見える ・ 右から侵入している木片は中心と周辺をつなぐ役割りをしている ・ こうして画面全体が一体となり自律したハーモニーが奏でられている ・ セザンヌは個々の対象にではなく、構成に深く集中していた ・ この構成は晩年になるほど、深く、複雑になっていった 
     「水浴の男たち」・・・・・・・・ セザンヌの裸体画「水浴の男たち」からは、身体のラディカルな解釈、と画面全体のつくりのために、解剖的な精確さよりも感覚論理と有益な構築を重視しているという ・ ポスト印象派にとって「普遍的な言語」への道を示すものであった ・ ここにあるのは風景と人物との限りない調和である     
■ロートレック主義 :  
享楽の世界を描いた・・・・・・・・・・・ ロートレック(1864〜1901)の芸術は世紀末の新しいひとつとして受け入れられた ・ 彼はゴッホと知り合い仕事を始めた1886年以降、モンマルトルの丘の怪しげな享楽の様子を描くことになる ・ 風俗を描く画家となりなったが、貴族(アルビ伯爵)としての生まれを捨てることはなかった ・ 陰鬱で生気のない売春宿を描いていたが、静寂で重苦しい中にも、優しさに満ちた男性の眼差し、彼女達への感謝の気持ちが表現されている ・ ロートレックは最後は重度のアルコール中毒症になり、1891年パリを離れ先祖の眠る地へ引き篭もった    
   「女道化師シャ・ユ・カオ」・・・ 肌がたるみどこかつかれているような女道化師、応援したくなるような男性の感情がわいてきそうな絵である ・ キャバレーや娼婦たちなど、陽気で猥雑で哀しいひとたちの世界を鋭くみつめている ・ この絵、「赤毛の女(化粧)」に描かれた女の背中は、人間の生きる哀しみを厳しくとらえている    
   「ポスターの絵」・・・・・・・・・・ 1881年、大学入学資格試験に合格。しかし、勉学の道はやめて、絵画に専念、モンマルトルのアトリエで絵を勉強した ・ 身体は弱かったが、陽気で知性的なロートレックは友人が多かった ・ 21歳の頃、モンマルトルでブリュアンという歌手、作詞家に出会うが、場末の歓楽街に出入りしたのもブリュアンの教えであった
1886年、パリに出てきたばかりのゴッホに出会い、ゴッホにアルル行きを勧めた
1889年、初のロートレック展を開く。この頃はモンパルトルに入り浸っている
1891年、27歳・初のポスター「ムーラン・ルージュ」を制作。 以後数年間は制作と旅に忙しかった。
1896年、32歳のとき、マンジィ・ジョワイヤンの画廊で二度目の個展を開いた
1897年、33歳、ポスターの制作を辞めて、石版画に熱中する ・ このころからロートレックの飲酒が深くなっていった        
               
■ゴッホとゴーギャン :              
ゴッホはドラクロワを継ぐ革新・・・ 1863年に亡くなったドラクロワは新しい時代の最も革新的な画家と見られていた ・ ゴッホはそのドラクロワと比較されることに注目されるが、ゴッホは近代的な色彩の使い方、音楽や詩と同じように絵画を描くことを新たに自らの個性とした ・ ゴッホはパリに到着するとモネからスーラに至るまで、自分が出会った画家から多くを吸収しようとした  
   牧師家出身・初めは画商・・・ ゴッホは1853年牧師の家に生まれ、伯父が画商であったので、ゴッホも伯父の家で画商として第一歩を踏み出した ・ はじめ画商として、バビルゾン派の画家達の絵に親しんでいたが、移り気の激しい性格で、1876年画商を断念、炭坑の町に移り住んだ ・ そこでは劣悪な労働環境のもと働いていた ・ ゴッホは神学も学んだ ・ そしてゴッホはさらなる奥地、辺境の田舎へと移り住み、貧困の中で暮らしながら絵画で表現できる真実を導き出そうとした ・ しかし耐えがたい世界が抱えている過酷さや他人行儀な態度が目につくようになり、1885年その地でその探求を断念することになった ・ こうしてパリに出るが、遅咲きのゴッホは本当の孤独の苦しみを味わったので、印象派のグループの熱意、友情を理想化するようになった  
   ゴッホ自画像は28点もある・ ゴッホの自画像は日記であり、潜在的な不安や新しい生活への失望とも向かい合うために描いた ・ ゴッホの血筋は数世代に渡って深刻な精神病に襲われていたといわれる ・ ゴッホが描いた自画像は、ゴッホ自身の外見ではなく、奥にあるものを描いている ・ ゴーギャンを失ったゴッホは、絶望から耳を切り落とすがそのときの自画像が有名な包帯をしたゴッホである ・ それにしてもこのような恐ろしく凄まじい自画像を残す画家はそうはいまい    
     ゴッホの自画像に変化・・・ ゴッホの最も著名な自画像作品のひとつに「自画像(渦巻く青い背景の中の自画像)」、「自画像(パレットのある自画像)」というのがある ・ 共に、ゴッホの最後期の自画像である ・前者は青い渦巻き模様風の背景の描写が面白い ・ 画家自身の内面が出ている厳しくまた確信性に満ちた表情と、そしてそれにその背景がマッチして表現されている ・ これらの作品は、色彩表現や表現手法においてそれまでに手がけてきた自画像と比較し、明度と筆触に明らかな違いが示している ・ 幻想的で明るさと短く流線的なタッチは、ゴッホが晩年期に辿り着いた自身の絵画表現である        
   明と暗の星の絵2点・・・・・・・・ 星降る夜」ではゴッホは近代絵画において自分の果たすべき役割りを入念に確認している ・ ゴッホは精神的に動揺しているとの疑念を払拭するために、「表現主義」で説明をしている ・ 奥行きよりも高さや上昇を強調し、上方に視線を向けられる効果は、緩やかに3本の帯状の部分によって構成されている ・ ぼやけた青と緑に覆われた、画面の随所に、二人の恋人同志と同様、生き生きとした素敵な場面をあしらっている ・ 「星月夜-糸杉と村」はアルルでゴーギャンとのケンカの後、左耳を切って病院に運ばれ、自らサン・レミの精神病院へと向かった後に描かれた作品である ・ この後、ピストルで自殺している ・ 錯乱状態が絵にも表れている ・ 37歳で没  
ゴーギャンの道のり・・・・・・・・・・・・ ゴーギャンは印象派展に5回参加しているが、40歳と迎える印象派展が終ってのよくよく年1888年まで真価を発揮できなかったと考えられている ・ 西洋の価値観に反感をもったゴーギャンはパリの美術から逃げた反逆者であり、場所をめぐり2ヶ所での急激な変化を必要とした絵描きである 
   海軍兵から株の仲買人・・・・・ ゴーギャンは幼少期ペルーで育ち、18歳でフランス海軍に徴用、パリではアパートを借りるがその持ち主が美術鑑定士、その後ろ盾を得てゴーギャンは株式の仲買人となり、収入も上がった ・ 十分暮らして行けるカネをもってゴーギャンは絵を描くようになり、ピサロに誘われ第4回印象派展から出展するようになった    
   ジャポニズムが影響・・・・・・・・ 金融危機によりパリを離れざるを得なくなったゴーギャンはルーアンからデンマークへと拠点を移した ・ ルーアンでのゴーギャンの絵は密度の点では閉鎖恐怖症に落ち入りそうなほど濃密となり、平面効果と力強い空間構成力をもったものとなった ・ これはジャポニズムに影響を受けており、ジャポニズムの濃密で太い輪郭線の中に色彩をまとめ、思いがけないフレーミングで画面を切り抜くなどを取り入れている
   ダヴェン派からナビ派・・・・・・ 1886年夏ゴーギャンはブルターニュ、ポン・ダヴェンに逗留した ・ 世界各地から大勢の画家が集まってきていた ・ パリとの違いを接し、人間や本物の文化を考えた ・ また1891年宗教的霊感の影響の強い「薔薇十字会」と命運を共にして、ナビ派に加わった ・ 抽象派ともいえる風景画によって、ナビ派の新たなる綱領がつくられた ・ 宗教的な主題や古くからの信仰の儀式を重視、そうした神話研究をゴーギャンはタヒチに行く前にしていた           
   非西洋的な自画像・・・・・・・・ 1888年の終わりにゴーギャンはゴッホと共同生活をし、また破綻をする ・ その翌々年1890年〜91年にかけて描かれた「黄色いキリストのある自画像」は随所で熱狂的までに非西洋化の画風になっている ・ この絵は類例のないコラージュであり、キリストとペルー風の水差しとの間に情熱的なゴーギャンが毅然として描かれている ・ キリストと同一視して、孤独に屈しない姿勢を理想化している ・ こうした抽象と形式化再生絵画様式がこの時代には受け入れられるようになってきていた      
タヒチへ移動・・・・・・・・・・・・・・・・・ 1891年6月ゴーギャンはタヒチに到着、9月に地理的文化的な土地をと探索し奥地マタイエアへ移り、2年住んだ ・ ピンクの潟、モーヴや赤の大地、花と果物の神秘的な女性といった中で、異文化の宗教と文化の画題を取り扱った  
   タヒチで女性を頻繁に描く・・ ゴーギャンはタヒチでの人々の日常の姿をモチーフとし、目にも鮮やかな色彩を用いて、平面的で装飾的な画面を作り上げていった ・ 「タヒチの女たち」の絵で、左手の女性を右手を垂直に支えとし、体や脚は短縮法で描いている ・ 下を向いた頭部とともに装飾的な描き方である ・ 右の女性は全体的に丸みをおびピンクで描かれており、後ろの海も暗い色に白でのハイライトを使って装飾性を生み出している ・ ゴーギャンは2年間の第1次タヒチ滞在で80点もの油彩を残し、新たなる美学上の展開を示した