発展国ベトナムを知っておこう (その1) 
                

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ベトナムの成り立ち   ベトナム人
政治、文化、生活
ベトナムの歴史(中国統治〜仏植民地)
ベトナム民族運動・ベトナム戦争
ホーチミン統一国家・一つのベトナム
 . 大半はキン族
越僑の活躍
ベトナム語
 . ドイモイ政策・国家機関
音楽、文学、映画など
家族、教育、料理など
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  ベトナムの成り立ち    (明石書店「現代のベトナムを知るための60章」より)  
■ベトナムの歴史概括 :   
ベトナムという名称・・・・・・・・・・・・・ 「ベトナム」という名前も、漢字で書くと「越南」となる名前もベトナム人がつけたものではない ・ 1803年阮福暎(グエンフックアイン)はベトナム域を再統合したことで、清朝に対して朝貢を行い、「南越王国」の称号を要求したが脚下され、代わりに「越南(ベトナム)」が与えられた
   中国統治の時代・・・・・・・・・・ 遡ること紀元前、古代中国秦の始皇帝の時代、軍人趙佗(チョウダ)が広東を中心にした「南越国」を創立させた ・ その後漢の武帝の遠征によって滅び、北部ベトナムが「交州」という名前になった ・ 隋の時代中国に統一「安南」となる ・ 19世紀初めまで中国はこの地を「安南」とした
   16世紀に南部が独立・・・・・・ 15世紀初め明朝で独立戦争に勝利し、黎朝(レチョウ)が成立する ・ 名前は中国に乞うて「安南」とし、名より実をとって独立した ・ 16世紀ベトナムは南北に分裂、北部は黎朝が支配するが、中部には阮氏が王国を築き、南へも勢力を拡大した ・ 18世紀後半阮恵(グェンフェ)が南北を統合し、中国清朝やシャム(タイ)にも勝利したことで、今では国民的英雄になっている ・ しかし彼とて中国には「安南」国王としての称号に甘んじた ・ その後1803年上記の阮福暎(グエンフックアイン)が当地を固める  
   フランスによる植民地支配・・ 1858年に始まったフランスのベトナム侵略は、1887年にインドシナ連邦として結実した ・ インドシナ連邦はベトナム全土とカンボジアを支配下におき、後にラオスをも統治した ・ ベトナムは北部にトンキン保護領、中部にアンナン保護国、南部にコーチシナ植民地と3分割された ・ 全人口の0.1%に過ぎないフランス人が支配し、石炭、錫などの工場、農地がつくられ、その利益はフランス本国へと奉仕された ・ 当時からの生産品、米、コーヒー、ゴムは現在においても総輸出額の2割を占めている         
      経済発展し華僑入国・・ 世界経済に連動し、インドシナ連邦には鉱山など局地的な労働需要の増加があり、国内外の出稼ぎ移民を促し、アジア系移民の流入が増加した ・ 中でも華僑、印僑はネットワークとノウハウを活かし、流通と金融を動かすに至った     
      クォックグー語に注力・・ フランスは植民地化でフランス語とクォックグー語の普及に注力した ・ クォックグー語はアルファベットを基としており活版印刷になじみ、新聞・雑誌の印刷が盛んになった ・ これによりフランス文化のみならずアジア文化の流入拡大がもたらされた ・ インドシナ連邦統治機構が整備され、各地にフランス直轄の都市が建設され、支配階級のフランス人を筆頭に買弁化した華僑・印僑や大地主などがそこに居住した ・ 一方農村部においては、抗仏運動へ傾斜するものが出てきた ・ 20世紀初頭ベトナムの内部に社会不安と分裂を内包したまま第2次世界大戦に突入した      
ベトナム民族運動・・・・・・・・・・・・・ ベトナムがフランスの植民地から脱し、またアメリカとの戦争に勝利して、民族独立、統一が達成できたことで、「ホーチミンの恩」「共産党の恩」が強調される ・ ベトナムの民族運動は19世紀後半の植民地化の初期に、中心的役割りをはたした知識人である儒者や村落の有力者などで抗仏闘争が行われた ・ 1920年代には儒教者による愛国啓蒙運動が行われた ・ 実業振興なども行われ、青年による日本留学運動もあった  
   オーチミンによる国家統一・・ 1920年代後半、孫文の三民主義を標榜する国民党が結成され、一部の人たちは共産党よりになっていった ・ 1930年代以降もベトナム民族運動で主導的役割をになうようになったのは、マルクス主義者たちであって、1930年にグエン・アイ・クォック(のちのホーチミン)により共産党が結成された ・ その1940年には日本軍にもよる二重支配を受けるようになったが、1941年グエン・アイ・クォックはインドシナでなく、ベトナムを枠組みとした独立がめざした ・ 日本敗戦によりホーチミンはベトナム民主共和国独立宣言をした     
ベトナム戦争・・・・・・・・・・・・・・・・・ ベトナム戦争は自由主義のサイゴン政権と共産主義の北の政権との争い ・ 1945年ホーチミンはベトナム民主共和国(ベトミン)宣言をしたが、この宣言は国際社会においては認知せず、南部にイギリス軍が進駐した ・ 追ってフランス軍も進駐するも1946年3月ベトミンの抵抗にあいインドシナ戦争が勃発する ・ 1954年7月ジュネーブ協定が締結され北緯17度線を境界線で分断することになる ・ 南にアメリカがつき分断国家が固定化される ・1959年1月南の旧ベトミン勢力への弾圧があり、これへの開放戦線武装闘争グループができ、内戦が起こる ・ 解放戦線をハノイの手先とみたアメリカは、ベトナムに本格的に軍事介入していった ・ 方やソ連も背後につき、長い戦争となった     
   1つのベトナムへ・・・・・・・・・・ 1965年北ベトナムへの恒常的攻撃があったが、1968年南ベトナムでも解放戦線による攻撃もなされた ・1973年1月パリ協定が締結され、米軍撤退となり、南ベトナムに2つの政権を許すこととなった ・ これによって北ベトナムは南へも勢力を拡大、南の解放戦線は北の祖国戦線に吸収され、1976年7月ベトナム社会主義共和国となって統一された   
   
■多民族国家と在外ベトナム人との関係 :   
平地民の大半はキン族・・・・・・・・ ベトナムは憲法第5条に「ベトナム社会主義共和国はベトナムの地に共に生活する各民族の統一国家である」と規定されている ・ 現在54の民族が暮らしている ・ 多数民族であるキン族(6580万人)が9割弱をしめ残り53の少数民族で山間部に多い ・ 華人については90万人前後であるが、南北統一以降南の社会主義化や中越紛争の影響で大量の華僑華人が国外へ退去した ・ またベトナム南部では華人の親が自分の子どもに民族的差別をきらってキン族を選択させたり、手厚く保護されているクメール族を選ばせるなどの事例がみられる     
在外ベトナム人越僑の活躍・・・・・ ベトナムの人口は8000万人であるが、国外にいるベトナム人(越僑という)は200万人いる ・ 越僑は国外からベトナムの独立を活発に支援した ・ フランス、ロシア、中国をわたり歩き独立闘争を率いたホーチミンも越僑のひとりといえる ・ 越僑はフランス、カナダ、オーストラリア(各10%)に対し、アメリカには60%もいる ・ 在米ベトナム人からベトナムへ送られてくる物資多くなり、共産党内でもドイモイの立案で在米ベトナム人を積極的に活用していくことが討議された ・ 越僑という共産党支持をにおわせる呼び方を、政府もあらため、「在外ベトナム人」と呼ぶようにした ・ ベトナム政府の政策はこのように変化し、どのような形で国外に出たかを問わず、国内のベトナム人と同じ権利を付与するようになった  
ベトナム語とクォックグー・・・・・・・ キン族の母語であるベトナム語が公用語となっている ・ ベトナム語は基本的にはただ一つの「音節」からなる「単音節言語」であり、音の高低や曲折によって区別される ・ ハノイ方言にも6つあり、方言が多い ・ ベトナム語の表記はクォックグーと呼ばれるローマ字表記(ヨーロッパの宣教師によって始められた)である ・ それまではチューノム文字という漢字のような文字である ・ ローマ字表記が本格的に普及しだすのは、フランス植民地のときからである ・ ベトナム人の識字率は93.4%と高いが、これはクォックグーの学び易く短時間に覚えられることにも起因している       
ベトナム人の名前・・・・・・・・・・・・・ ベトナム人には「阮」(グェン)という姓をもつ人が多い ・ 北部では48%、南部では28%を占めているともいう ・ 古く13世紀に強制的にこの名を名乗らせることがあったようだ ・ キン族に関しては160ほどしか姓がなく、上位15のものが圧倒的に多い ・ 3音節(姓・ミドルネーム・名)または4音節からなっている ・ 女性は結婚しても名は変らず、子どもは父親の名前を名乗るのが一般的である  
               
   
  公平、民主、文明的な社会へ    (明石書店「現代のベトナムを知るための60章」より) 
   
■豊かさ求めての変化 :             
農民の階層分化・・・・・・・・・・・・・・ 1954年〜56年、農業改革が行われ、農民に「成分」と呼ばれる階級が指定された ・ ドイモイ政策以前の社会主義国家では「人民に奉仕」することを教えられ、学歴などあっても所得に繁栄されることは少なかった   
   ドイモイ政策・・・・・・・・・・・・・ 1976年南北ベトナムが統一されて以来、ベトナムは社会主義体制を構築し、官僚主義的分配経済を進めてきました ・ しかし社会主義体制の下での10年間は新しい国づくりには役立たず大きな障害になったとの認識から、1986年12月のベトナム共産党大会で下記の見直しを行うことが決定された
@社会主義路線の見直し
A産業政策の見直し
B市場経済の導入
C国際協力への参加を進める
従来の思想から脱却し新しい変化を決議し、このスローガンを「ドイモイ」と呼ぶことにした  
地域間格差・・・・・・・・・・・・・・・ ベトナムの都市化はドイモイ以降本格化した ・ 商業都市ホーチミン市(サイゴン)は700万人にもなる ・ 首都ハノイ、300万人、ハイフォン市、ダナン市と続く ・ これらの都市は外国投資などで工業団地などがある ・ 都市の経済発展に比べ、農村の生活水準は低いまま ・ 初等教育の就学率は90%と途上国では高い方であるが、大学の就学率になると都市の16%に対し、農村部は1.5%と極めて低い ・ 経済的に乏しい    
              
■ベトナム人の生活 :           
ベトナムの家族・・・・・・・・・・・・・・・ ベトナム人にとっては家族はこころのよりどころ ・ 若くても「親を養う責任」を負っており、幼い弟、妹の学費稼ぎというものも多い   
女性の地位と役割り・・・・・・・・・・・ 女性の財産相続権は15世紀の法令で既に認められており、嫁にいく女性にも父親の土地を分けてもらうことも普通に行われる ・ 女性はよく働いており、概して強い 
ベトナムの教育の高さは有名・・・・ 識字率が高く、男性が96%、女性が91%もある ・ 小学校の就学率は男女とも95%である ・ これらの数値はタイ、マレーシアとほぼ同等である ・ 秘書が電話番号の20くらいを空で覚えてしまうのには驚いた ・ 毎年行われる国際数学オリンピックでベトナムは5位以内、日本は20位である    
公認されている宗教・・・・・・・・・・・ 公認されている宗教は6つ ・ 仏教、カトリック、プロテスタント、イスラム教、カオダイ教、ホアハオ教であり、後者の2つはベトナムでフランス植民地時代にできた宗教である ・ ベトナム最大の宗教は仏教で大乗仏教系の「北宗」、上座仏教系の「南宗」、それにそれらの融合を目指すベトナム仏教「托鉢仏教」とがある    
米の国・お料理・・・・・・・・・・・・・・・ 「東南アジアの料理」=「スパイシー」というイメージが強い ・ 東南アジアの国々は中国と印度に影響をうけているが、特に印度の影響が大きく、唐辛子やスパイスを使った料理が多い ・ しかし、ベトナムではあらゆる面で中国の影響が強く、箸の使用や喫茶の習慣など日常生活に多くの中国の習慣が取り入れられている ・ ベトナム料理は中華料理がベースであって、唐辛子やチリソースが別添えになっている ・ ベトナム人はバターやクリームを好まず、フランスの影響は受けていない 
   北の料理と南の料理・・・・・・・ ベトナムは米の世界第2位の輸出国である ・ 日本と同様、白い炊いたご飯にスープとおかずを食べるのが基本スタイル ・ 北は塩や醤油をつかったしょっぱい料理が多く、また南は甘い味付けが特徴となっている           
      北の名物料理・・・・・・・・ 名物はガータン(鶏肉の薬膳スープ煮)、チャーカー(雷魚の切り身のターメリック炒め)、ブンチャー(焼肉入りつけ麺)、犬肉などである ・ 北部は米が最も美味しく、米から作る麺が格別に美味しい ・ ハノイの麺「フォー」は水につけた米を挽き、蒸してから細くきった平打ち麺である ・ ハノイの麺「ブン」は米粉をこねてところてんにし細い穴から押し出し、熱湯の中に落としてつくる断面が丸い ・ 「ブン」の種類は多い   
      南の名物料理・・・・・・・・ 名物料理はカインチュア(タマリンドの酸味が効いた甘酸っぱいスープ)、カーコートー(魚の甘辛煮)、バインセオ(ベトナム版お好み焼き)などがある ・ 名物麺はフーティウという米からつくられた平打ち乾麺だ   
    
■文芸活動の盛んなお国 :          
民謡から軽音楽まで・・・・・・・・・・・ ベトナムは「詩」と「竹」の国といわれ、詩に音楽が結びついて民謡ができている ・ また集団労働の掛け声の「ホー」は中部の舟歌や脱穀歌に聴かれ有名である ・ Vポップと呼ばれる軽音楽も盛んに創作、演奏されている
戦争文学からポスト戦争文学・・・・ ドイモイ政策は文芸にも波及した ・ 「事実を直視し、真実を語る」スローガンにより文筆活動に灯がついた ・ これにともない戦争文学から平時文学へと移行            
ホーチミンのときより映画制作・・・・ ベトナムでは抗仏戦争のときより映画制作が始まり、ホーチミン主席が国家映画制作所をつくったが、このときをベトナムでの映画誕生のときとされている ・ 国際映画祭で数々の受賞もなされている      
                   
■ドイモイ下における体制 :          
国家機関・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 現行の92年憲法(ドイモイ憲法)は、国会は「人民の最高代表機関」と規定されているが、党、人民の関係については「党が指導し、国家が管理し、人民が主人となる」との原則になっている ・ ベトナムは社会主義的な法治国家であるが、市場経済の発展に伴って、国民の利害関係は複雑化し、貧富の格差や社会的不公平が著しくなってきており、指導部は社会主義の志向を維持しつつ、国民の多様な利益を守る法体系整備の課題がのしかかってきている
ホーチミン思想・・・・・・・・・・・・・・・ 1995年9月2日ホーチミンの26回目の命日の日、ハノイでベトナム建国50周年式典が華やかに行われた ・ ホーチミンはベトナム戦争たけなわの1969年に死去した ・ 1991年第7回党大会において従来の「マルクスレーニン主義」に加えて、「ホーチミン思想」を党規約に明記することを決定し、ドイモイ憲法にホーチミン思想を盛り込んだ ・ ホーチミン思想は社会モデルはマルクスレーニン主義を普遍とし、革命は階級的契機よりも民族的契機を重視したことである ・ すなわち民族解放と社会主義、 「社会主義ベトナム」、「国民国家ベトナム」を説くものであった  
軍隊と公安・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 「人民軍隊」「人民公安」と呼ばれているが、この2つの組織の特徴は@共産党の路線戦略を守る武装組織なること、A社会的大衆的な組織であることである ・ 一般的には軍隊公安内には階級が存在するが、ベトナムでは階級はあるが、人間関係は上官と部下ではなく同志であって、大衆化が意識される ・ かれらのいでたちも質素なもので、上官の服装も気の毒なほどである ・ このようにして一般国民との距離をおかないようにしている         
    
■リンク集・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ドイモイ政策 ・ 即分かるベトナム ・ ベトナム社会主義共和国 ・ ベトナム生活くらぶ