発展国ベトナムを知っておこう (その2) 
                

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地勢、経済から見るベトナム  
豊かさへの条件
地勢からの産業発展
ゴム農園とケシの栽培
ベトナム人はどんな人々
 . 銀行・通貨などでの現地事情
ベトナムへの企業進出
ベトナム技術レベルの問題点
 . 発展の内実
戦争の後遺症
グローバル化前線
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  地政学、経済学からベトナムをみる    (PHP研究所「ベトナムと組むメリットを知らない日本人」柘植久慶著より)  
■地勢からの産業発展 :   
フランスは3地域を逐次植民地化・ ベトナムは南北1600Kmもある国土で、気候、風土も南北により大きく違う ・ 北部を東京(トンキン)、中部を安南(アンナン)、南部を交趾支那(コーチシナ)という分け方がされて、フランス3地域を逐次保護領化していった ・ 1860年代には交趾支那とカンボジアを、70年代には安南を、80年代には東京とラオスをと順次保護化にしていった
   フランスの巧妙な植民地化・・ ベトナムは古くから米の産地で、中国大陸などへ輸出されていた ・ フランスがこの地に乗り出すと、地質調査をし、中央の赤土地帯がゴムの木に適していることが分かり、カンボジアの国境にかけてゴム農園が開拓された ・ 今でもフランスのタイヤ製造会社ミシュラン社の広大なゴム園があり、ここはベトコンの隠れ場所になった ・ 20世紀自動車の増加によりタイヤの需要が増加し、植民地経営が軌道にのった ・ また鉱業に関しても、ホンゲイの無煙炭が発見され、これまた一大産業に発展した ・ ベトナムはラオス、カンボジアにはない、鉱業資源に恵まれた
中国人によるケシの栽培・・・・・・・ 南は気温が35℃あり、米の3期作が行われている ・ これによりサイゴン(ホーチミン)郊外には17世紀の昔から中国人が移住し始めた ・ 中国人にもピンからキリまでいて、米の仲買人をする金持ちもいれば、一方肉体労働者もいて彼らは、中国から阿片吸引の習慣を持ち込んだ ・ 19世紀中国人の増加により、阿片のトルコなどからの大量買付けなども行われた ・ 第一次世界大戦でその輸入が途絶えると、ラオス付近の山岳地域で自前生産するようになった   
整えられつつあるインフラ事情・・・ 旧北ベトナムの港は7000t級の船舶で精一杯であった ・ 数万t級の船舶が停泊できるのはサイゴン港、ダナン港など旧南ベトナムにしかなかった ・ アメリカ軍が使用した港が大きくなった ・ 道路も南の方が整備されていた ・ しかしハノイは首都ということもあり、近年急速に改良がなされた          
■ベトナム人とはどんな人々 :          
マジョリティのキン・・・・・・・・・・・・・ キン族は中国南方の人種と大体に似通っており、上流に属する人たちは肌が白い  ・ 女性は日焼けするのを嫌がり、日焼けしていない ・ 日焼けしているのは中流階級の下の人たちである ・ サイゴン(ホーチミン)ではキン族のほかにカンボジア系の人種が多い、山田長政がタイで活躍した時代、サイゴンはカンボジアの領土であったのでカンボジア人が多い ・      
   華僑系は反政府的・・・・・・・・ 1975年4月30日サイゴンが陥落すると、ハノイの統一政府は華僑(中国系ベトナム人)に対して圧力を掛け始めた ・ 溜め込んだドルをもっていた華僑はシャム湾などに逃げ出した ・ 北ベトナム政府は、南ベトナムのベトコン勢力の中核になっていた華僑が邪魔であった ・ 華僑はマレー半島にあっても、外国人としてみられ、政治の中核に入らせてもらえなかったので、版政府系に走って行った ・ 18世紀〜19世紀にかけて華僑はコーチシナの経済を担っていたが、これに不満をもった原住民達が5000とも6000とも言われる中国人を殺害した ・ その墓地がサイゴンにある      
カトリック教徒と仏教徒の対立・・・ ベトナムマジョリティキン族にも、カトリック教徒と仏教徒がいたが、1954年北ベトナム共産主義国家の独立で北部にいるカトリック教徒は攻撃を受けることとなった ・ これによりカトリック教徒は南に逃れた ・ 南ベトナムでもカトリックが政権をとっていたものの民間に反発が強く、こちらでもカトリック教徒の大統領はクーデターにあって追放された ・ しかしサイゴンは古くからカトリックの盛んなところであったので教会は多数ある   
勇敢な戦士を生んだ山岳民族・・・ 中部から北部の山岳にかけて小数民族が住んでいる ・ その中で最大の部族はメオ族 ・ メオ族の戦士には勇敢な者が多い ・ そこに目をつけたのがフランス軍であった ・ フランス軍は彼らを雇って第1次インドシナ大戦へ投入した ・ またベトナム戦争でも、アメリカ軍はメオ族を正規軍としてベトナム戦線へ派遣した ・ 75年ラオスが共産化されると、メオ族は共産主義の目の敵にされマスタードガスなどで攻撃をうけ、亡命するものが続出、アメリカ政府はコロラド州へ移住をゆるした     
       
■銀行、通貨など現地事情 :   
植民地化でインドシナ銀行発展・・ フランスがインドシナ植民地化を進めた1875年、サイゴンを中心に銀行が発足した ・ こらはインドシナ銀行という名称で、発券をしたり、融資を行ったりをした ・ とりわけ20世紀には自動車産業が発展したことがあり、またゴム園も見込まれて、インドシナ銀行は営業を広げた ・ インドシナ銀行の支店は、アジアの主要都市のほぼ全てにあった        
   発券銀行から商・・・・・・・・・・ 第2次大戦で日本軍が進駐、インドシナ半島が完全に日本軍により支配されると、銭、円の通過を流通させた ・ インドシナ流通券も同時に流通させt ・ 大戦終結後共産主義者にとってフランスの国策会社インドシナ銀行は最大の敵であり、銀行業務は低下していった ・ 現在は発券の業務はしておらず、商業銀行としての活動のみであるが、壮大な建物など威容はめだっており、植民地全盛時代の実力がかいま見られる    
ベトナムの通貨の変遷・・・・・・・・・ ベトナムは中国文化の影響下にあっただけに、通貨も方孔のある青銅のものが早くから使われていた ・ 銀塊には「紹治年造」などと漢字で書かれ、華僑系商人たちが大量に使った ・ インドシナ銀行が紙幣を発券するまだは、銀塊を使っていた ・ 1937年ごろになるとメオ族までが紙幣を使うようになり、銀貨の発行は全て停止してしまった ・ フランス統治のころは美しい通貨があったが、第2次大戦ころから、インドシナ銀行は発券するものの昔日の美しいいものは影をひそめた       
               
■ベトナム企業進出について :            
必ず知るべき現地事情・・・・・・・・・ 相手方は思ったより実力がないので要注意だ ・ 事業はじめても一部かじって逃げてしまうもの、盛業あっても資金力なく続かないものがいる ・ 共産主義下に50年(北)あった国で、ドイモイ以降もまだ15年で育っていない ・ ドイモイが軌道にのったのは2002年ころで、その年からは、毎年成長率7.5%以上を保っている ・ 将来への期待は抱けるが、資金ほか日本進出企業には頼られてくる ・ 国営企業もあるが、ほとんどは資金不足、組むに値しない  
知っておきたい南北の民族性・・・ サービス業のような業種では、南の人間の方が如才ない ・ 共産下の時代が短いのでなにかと融通がきく ・ しかしながら精密さを必要とする機械産業や組立てなどだと、北部の方がよい ・ 北部の人間の方が、一定時間我慢強く継続することが、南部の人間より優れているといえる ・ これは年間の平均気温にも影響されるところが大きいであろう ・ ホーチミンは35℃以上、ハノイは20℃以下との差がある ・ ベトナムの気候は、ハノイが温帯、フエが亜熱帯、ホーチミンが熱帯だといえる  
優れた人材は可也いる・・・・・・・・・ 優れた人材が少なからずいるので、それを発掘するのが企業進出のポイントといえる ・ 北の若い世代に比較的多く見つけ易い     
中国は給与、ベトナムは名誉・・・・ ベトナムは40代終わりから60代にかけて、優秀な人材は戦争で大分犠牲になった ・ その年代は少なく、従って30代前半からの若い年代層に期待が寄せられる ・ 北ベトナムは南ベトナムに対し、劣悪なる条件下で名誉のためと思い戦った、企業進出にあったもベトナム人は名誉にウェイトをおく ・ 名誉を与えることにより、定着率が高まるようであり、他のインドシナ諸国の国民とは違うと感じられる ・ 中国では給与が最大の問題だが、考え方にベトナムは勤勉さがある 
中国のリスク会費先として最良国・ 中国は政策が一つ変れば企業も危険極まりない ・ 靖国問題、尖閣諸島問題、台湾海峡問題などで日中韓はゆれる ・ 彼らは環境問題、非合法生活との理由で人質にしたり、工場停止をせまったりしてくる ・ 中国政府が影で糸を引く反日騒動は数年に一度必ず起こる ・ 2010年、2015年と時が進むにつれ、関係悪化していく恐ろしさがある ・ それに比べるとベトナムは問題少なく、経済も成長してきている ・ しかしまだまだ資金力、技術力、設備力が未熟で問題も多いので要注意ではある 
              
■ベトナムの技術レベルなどについての問題点 :   (海外人づくりハンドブック:木村大樹著「ベトナム」より)           
学校教育についての問題点・・・・・ 工業化が進むベトナムだが、専門知識が不足している ・ 図書館、町の本屋へ行っても技術書は少なく、勉強しようとしても資料がない状況である ・ 仕方なく英語の資料を使うが、英語のできる人が限られている ・ ベトナム人の外国語能力は全般的に低く、南部では比較的英語を話す人はいるが、北部では英語の話せる人は少ない ・ ロシアや東欧地域へ留学させられた人がおり、その人たちはロシア語やチェコ語を話す ・ 企業、官庁のトップ層はこれらへの留学組50代が多い ・ 日本語のできる人は極めて少ない  
地元企業の技術レベルの問題点・ 最低限の機能を満足していればよいとの考えが一般的 ・ お客様に満足してもらえる製品づくりまでの気回しがない ・ 傷が少々あっても気にしないといった感じ ・ ただ教えればできる能力はもっており、情報が少なく品質に対する注意がない 
ベトナム人が教えるとよい・・・・・・・ 製造業の例であるが、ベトナム人にはベトナム人が教えるとよい ・ その指導に当たる者を日本留学で教えたりされる ・ ベトナム国内ではインターンをとって教育し、優秀な学生をみつけるということもなされている ・ 人の発掘、教育に時間がかかる    
       
  
  ベトナム新時代    (岩波新書 坪井善明著「ヴェトナム新時代」より)
  
■社会主義市場経済ドイモイ :          
発展の制約要因・・・・・・・・・・・・・・ 中国は1978年から「改革開放路線」を採用し、「四つの近代化」をテーマに「社会主義市場経済」を導入した ・ ソ連は85年3月にゴルバチョフが書記長に就任して、グラスノスチ(情報公開)とペレストロイカ(刷新政策)を打ち出した ・ これに遅れること8年と2年、1986年12月、ベトナム共産党も「ドイモイ」という刷新政策を採用した ・ 先行の2国の改革で、ソ連の根底的な改革ではなく、中国の食料増産を中心とした経済政策を先行する方式の方がベトナムにあっているとして、中国の改革プロセスを重視した
   中国とも異なる政策実施 中国はベトナムの35倍の面積と15倍の人口をもつ国 ・ 中国ではカリスマ的なリーダーが率いるが、ベトナムでは農村の長老会議などの伝統があり、集団指導体制が好ましく、民主的な運営をとることになった ・ 1979年16日間という期間ではあったが、中越戦争があったことで、中国との国交、情報のやりとりも冷えている             
   ベトナム固有の事情・・・・・・・ ベトナムは北部、中部、南部の地域に戦争の事情もあって完全に分かれており、3地域が独自に発展する方法をとった ・ ハノイは空爆でインフラが破壊されており、流通に支障があったし、計画経済下でクーポンで生活していた人民は、市場経済には慣れず、広告宣伝など行き届かず物品の流通が滞り、1992年までインフレが続いた ・ ベトナムの通貨は宋の銅銭が大量に使われたことで「銅」(dong)云われるが、インフレでその信用は地に落ちた ・ みな貨幣で持つよりも品物でもとうとしてインフレを加速させた    
国際的孤立からの脱却・・・・・・・・・ ベトナムの国際的イメージの改善に役立ったのに2つがある ・ 1988年に施行された外国人の投資を奨励するための法律である ・ もう1つはカンボジアとの和平である ・ 1991年ベトナムのカンボジア侵攻が、カンボジアのシアヌーク殿下とフンセン首相の会談で収まったことである ・ 明石康氏を代表とする国連カンボジア暫定統治機構から、新生カンボジア王国が成立するに至った ・ これによりベトナム軍もカンボジアから20万人撤退させ、日本もODAを復活させることになった ・ 1991年に途絶えていた中国との国交も復帰した    
   2005年までは貧しき国・・・・・ 1996年以降になるとインフレ率は5%と安定し、外国投資も増えて21世紀に入るとインフレ率も4.3%、経済成長7.5%と経済発展を示すようになった ・ しかし一人当たりの平均所得は2005年、419万ドン(年2万6200円)であってまだまだ極貧である          
ITの普及が一役・・・・・・・・・・・・・・ 米国に渡った越僑が米国で第2世代となり、大学へ進学し、多くのものが医者やコンピュータ技術史になっていった ・ 20世紀初頭ベトナムはフランスの統治下におかれ、中国の影響をさけるため、漢字を使わずローマ字表記文字を使うことになった ・ その文字は17世紀イエズス会の宣教師アレクサンドル・ドゥ・ロードによって発明されたローマ字表記のクォックグーである ・ この文字でベトナム語のパソコンソフトを彼らは開発した ・ この文字はホーチミンにも愛用一般化されていたので、パソコンへの移行も早く行えた ・ パソコンも高価ではあるがカンボジアなどから中古品が密輸入され、瞬く間に広がって行った           
                   
■この国の豊かさの条件 :          
発展の内実・・・・・・・・・・・・・・・・・・ この国の発展の内実は、石油、米、コーヒー、こしょう、えび、するめ、果物、野菜などの一次産品の輸出と、外国のODAや融資、投資によって輸出が伸びているだけのことである ・ 製造業においては、安い人件費で組立てを行えるが、部品製造までには至っていない ・ 石油精製、大規模な製鉄所もない ・ 中国は「改革・開放路線」を開始した1978年からわずか7年で、日本のODAと日本の新日鉄の技術を得て宝山製鉄所を着手した ・ ベトナムは1986年のドイモイ政策から20年になるが、まだもって実現できずにいる
もう一つの戦争後遺症・・・・・・・・・ これにはさまざまな理由がある ・ 従来の友好国であったソ連が崩壊し、資金援助を頼めなくなってしまったこと ・ 中国との国交正常化は1991年、日本のODA再開が92年、米国との国交正常化が95年と遅れたことも影響がある ・ 鉄鉱石の輸入などに必要な大規模港湾が、旧敵地南側にありハノイの近郊になく建設用地の選定の話が進まなかった ・ こうしたこともあり部品生産ができず、組立産業しかできなかった  
非党員でも金持ちになれる・・・・・ これまでは各種許認可は独裁共産党の党員でしかできなかったが、共産党員でなくても金持ちになれるチャンスが急速に拡大してきている ・ 外資が導入され外国資本との合弁会社が数多く設立されたので、労働者の雇用チャンスが広がってきたためである ・ ソフト産業も有望な企業になっており、そこでは月給800万ドン(5万円)以上を手にすることもできるようになった ・ 因みに大学教授の月給は250万ドン(1万5000円)である       
   グローバル化の最前線・・・・・ このように「市場経済」が発展していくと、政府や国家の介入を受けない「市場」という空間ができてくる ・ 共産党と関係のない人たちの活躍する余地が出てきた ・ 直接外国の企業や政府と関係する空間に、最前線がある ・ 2006年には党員も経済活動に参画できることが採択された ・ しかし人口の80%を占めるのは農村部であり、そこでの月収は約1600円とまだまだ貧しい 
                
■リンク集 :              
    ベトナム経済研究所 ・ ドイモイ経済小史 ・ 外務省(ベトナムの状況と日越関係)