ムバラクの失政とエジプトの混迷を振り返る 
                ( 朝日新聞ほかより )

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エジプトの混迷  ムバラク後の混迷
中東、米国の混迷
デモへの民衆の声
ムバラク退陣への経緯
信頼できるエジプトの軍
 . ムバラクの経歴
ムバラク長期政権の功罪
米国に莫大な援助を受けた
 . イスラエルとの平和条約
中東へデモ飛び火の懸念
米国民主党の失政か?
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■エジプトの混迷 :   
デモへの民衆の声・・・・・・・・・・・・ なぜエジプトの人々はこれほどにまで怒り続けていたのであろうか・・・ ・ 大統領のコネがなければ能力が高くても就職ができず、賄賂などの買収に頼らざるを得ない ・ 役所での手続きも、係官への賄賂などが当たり前のように求められる ・ 約30年のムバラク強権政治で「不正常識の社会」がひどくなった ・ 一日2ドル以下で生活する貧困層が人口の2割も占める ・ 最低限の福祉を求められない人が増えデモが起こった
デモの発端・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 18日間にわたるデモでエジプトのムバラク大統領を辞任に追い込んだのは、若者たちがインターネットを通じて結集した結果ともいえる ・ 「革命」に決定的な役割を果たした一人は、ワエル・ゴネイムさん(30)だ ・ 「グーグル」のドバイ駐在社員であった彼は匿名で1月25日のデモを呼びかけたが、エジプトに帰国したところを拘束され、そのときの涙で民衆が決起した ・ チュニジアのデモが背後にあって大きくなった
   ムバラク退陣への経緯・・・・・ 3日スレイマン副大統領は国営テレビで「ムスリム同胞団(非合法な最大野党)に対話を呼びかけている」と報じた ・ ムバラクはこれに対して「すぐにでも退陣したいが、退陣するとムスリム同胞団に国を牛耳られてしまう」と心配を表明した ・ 同同胞団はイスラエルとの平和条約を破棄すべきとの立場をとってきた ・ 軍人出身のシャフィック氏は3日「改革を進める」と公言、デモには安全をはかり、同胞団との間では政党としての合法化を見返りに与えるなどの妥協をはかった ・ 無党派の若者達には混乱に対する謝罪を表した ・ 混乱を抑えられるのは自分だけとアピールした   
デモの終息と軍による暫定政権・・ そして2月11日夜ムバラク大統領辞任 ・ 空軍出身のシャフィックが新首相となり、次の選挙までの暫定内閣として発足した ・ 軍による前掲掌握は、新政府発足までの一時期のものとされている ・ ムバラクから全権委任されたスレイマン副大統領も権限を失ったものと見られる ・ また軍は全ての国際条約の順守を確約しており、1979年イスラエルとの条約も含まれるものとみられる  
   信頼おけるエジプトの軍・・・・ エジプトのこうしたこの混乱を乗り越えられるが軍の最高評議会 ・ 軍制による民主化がこの国では行える ・ 8千万人の人口をかかえる中東最大の国家エジプトには様々な宗教、さまざまな種族がいる ・ 中の対立を乗り越える鍵を握るのが、約半分をしめる24歳以下の若年層と選抜徴兵制の軍であるが、今回の革命の主役が脇役軍を信頼したことで収まった ・ しかし軍のエリートが強権発動するようになると、かってムバラクがたどった足取りになってしまう ・ 軍エリートが革命で盛り上がった民意を、汲み取れるかが今後注目される
               
■ムバラク後の混迷 :          
ムバラクの経歴・・・・・・・・・・・・・・・ 第一次中東戦争でアラブ軍の無能力が明らかとなり、有能な人材の将校への道が開かれ、中産階級のムバラク(20歳)は飛行士の道へと進んだ ・ 21歳士官学校を優等で卒業し、その後空軍士官学校の教官となり、ソ連に留学、戦闘機の操縦を習熟 ・ 36歳ソ連軍事アカデミーでの教育も受けた ・ 第三次中東戦争でエジプト軍は事実上壊滅したのだが、サダトによりムバラクは空軍大将に任命された ・ そして1973年第四次中東戦争でイスラエルへの電撃作戦を処し、戦局を有利に導き、国民的英雄となった ・ サダトに認められ、上級大将、副大統領になっていった ・ そして1981年サダト大統領暗殺され、副大統領であったムバラク氏が大統領となった   
ムバラクの長期政権 の功罪・・・・・ ムバラク政権はイスラム同胞団の影響力に対抗できるような政党は自分だけとし、もちろん、「この二者択一でイスラム同胞団を選ぶ者など、誰もいないことをムバラクは理解していた」 ・ 問題は、このために、実態のある政党が存在しなくなり、このために、非合法とされたイスラム同胞団の動きが注目されるようになった ・ アメリカにとってのジレンマは、民主主義、人権、自由が擁護されるように要求配慮する一方で、米国の国益も重視しなければならず、ムバラクと組んでいることであった    
   米国に莫大な援助を受けた・ ムバラクは外交面で、イスラエルとパレスチナの中東和平交渉の仲介に尽力した ・ イスラム過激派対策にも積極的で、米欧各国からは高い評価を得てきた ・ 選挙で不正の常態化できてきたのも、米国が莫大(ばくだい)な援助を続けてきたからである   
     中東での業績は少・・・・・・ しかしその存在は、アラブ社会主義を掲げて中東地域全体に影響力を及ぼしたナセル元大統領や、イスラエルとの平和条約を達成したサダト氏に比べると地味で、国民の認知度も当初は決して高くはなかった     
   腹心を固めての功罪・・・・・・・ サダト氏の突然の死で「たまたま」最高権力者になったムバラク氏は、就任以来、劣等感を抱き続け、それを覆い隠すかのように周囲を腹心で固め、人事は硬直化 ・ 10年、20年と同じポストにある閣僚も珍しくなかった ・ このことが政策の継続性につながり、特に外資導入が加速した2000年以降は、国内総生産(GDP)が一定の成長を続けることができたが、同時に貧富の格差は固定化された ・ 「活躍の場が奪われている」と将来に希望を持てない若年層を中心に、国民の政権に対する不満は増幅されていった     
       
■中東への混迷 :   
エジプト・イスラエル平和条約・・・・ 1979年アメリカ・ワシントンDCで署名された条約で、1948年以来続く中東戦争の休戦、そして1967年の六日戦争で占領したシナイ半島からのイスラエル軍と入植者の撤退であった ・ この協定により、エジプトはイスラエルを正式に承認した最初のアラブ国家となった ・ 1994年のイスラエル・ヨルダン平和条約により、ヨルダンがこれに続いた ・ エジプト軍暫定政権はこの条約を順守するものとみられるが、中東各国へのドミノ現象が懸念される        
中東各国は飛び火を懸念・・・・・・ エジプトで起きた「革命」は、同じような強権体質の多い中東国家へ飛び火する恐れがあり、戦々恐々とされている ・ チュニジア、エジプトのデモに誘発されて、イエメンでもデモが始まった ・ 産油国バーレーンでは各世帯に22万円を支給するなどして、事前に反政府運動に釘をさしている ・ エジプト同様高い失業率をかかえるヨルダンでも政府の経済政策を批判するデモがおきている ・ ヨルダンでもデモはインターネットによって集められた ・ またイエメン、サウジアラビア、シリアなどでも地域デモを治安部隊が暴力的な統制を行ったと報じられている    
イスラエル、中東との関連・・・・・・ 次回のホームページで記載します        
               
■米国の混迷 :             
米国に従順な政権であった・・・・・ ムバラク大統領は親欧米政権であり、「イスラエルに刃向かわない」「欧米と敵対するイラクやイランと仲良くしない」などの欧米からの要請に従ってきた ・ イラクやイランを攻撃するための米軍の駐留さえ許した ・ よって欧米は、この独裁政権を支持してきていたのである ・ 一言で言えば、ムバラク政権を支持していたのは、エジプト国民ではなく“アメリカの政権”であったといえる   
米民主党政権の失政・・・・・・・・・・ 米民主党政権の失政が今回のエジプト暴動を招いたとも言える ・ オバマ政権の取る柔軟な外交政策があって、米国はアフリカやイスラムについて刺激的な行動に出たくなかったということがあった ・ そしてイスラエルとサウジアラビアへの配慮があって、アラブを始めとする世界諸国において、「欧米に従順な政権であれば、独裁政権でも支持」し、「欧米に刃向かう政権であれば、いちゃもんをつけて爆弾を落とす」という態度を貫いてきた身勝手な政策をずっとしてきたつけである