共産陣営の崩壊20年の教訓 ・ 中東欧州を訪ねて 
                ( 日本経済新聞11月7日ほかより )
                ( 中東欧旅行記は abcaiueo.comのブログ 12月1ヶ月かけて発信します)

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崩壊20年後の状況   中東欧の駆け足歴史
中東欧を訪ねて
壁の復活希望の声もある
Euこそが生きる道
東欧の名所における変化
 . 神聖ローマ帝国
ハプスブルク家・プロイセン王国
ハンガリーとスロバキアの苦難
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  共産陣営崩壊20年の教訓は      
■自由主義映画監督ワイダ氏談 :  (日本経済新聞11月7日・映画監督アイジェイ・ワイダ氏談) 
ベルリンの壁崩壊後20年経過・・・ 共産陣営と自由主義陣営による冷戦の終結を象徴したベルリンの壁崩壊(89年)から20年 ・ ポーランドで厳しい検閲と戦い、自由主義の尊さを訴え続けてきた映画監督アイジェイ・ワイダ氏の教訓である
   旧体制を望む人多かった・・・ ポーランドは89年に、自由選挙が実現した ・ 自由化を推進するワレサ議長を筆頭にワイダ氏も出馬を要請された ・ 自由を手にしたが、自由をどう使うかはひとり一人が決めること ・ 自由を手にすることは選択の重みが生ずること ・ 旧体制では、考えたり・決断したり・行動したり・熱心に働いたりする必要がない ・ そんな旧体制の居心地のよさを感じていた人々が予想以上に多かった
   住宅環境などから旧体制・・・ 政治体制としての共産主義は終ったが、人々の意識に共産主義的なものが残っており、こうした考えは宗教界の一部には根強く残っている ・ 民主化を後押しした教会も「弱者を守る」ということから、怠惰な人々を守ろうとした ・ 変化を望まない人が多いのは、生涯に10回以上引越しをする米国人と違い、ポーランド人は政府に与えられた家に住み続ける ・ といったこともあり住宅は変化を拒む鎖となっていた  
■壁崩壊20年後の状況 :  (朝日新聞11月4日より)          
壁復活を望む不条理・・・・・・・・・・ ベルリンの壁が崩壊したが、東西冷戦の最前線だった欧州に、今有形無形の「壁」ができている     
   困窮者の列が続く地区あり・・ ベルリン東部、旧東ドイツのリヒテンベルク地区には、生活困窮者を支援する団体があるが、スーパーから集めた消費期限の近い食品を配っている ・ ある失業中の男性(51)は機械部品工場を転職しているが、不慣れな仕事でミスをする度に「東独出身者は能力が低い」と言わんばかりの言葉をあびせられてきた ・ 同じ仕事でも東側では賃金が半分以下ということもある ・ ドイツには壁を希望する者が15%もいるという      
   給料は3割も少ない・・・・・・・ 統一時、コール首相は「数年後には花咲くようになる」と宣言をした ・ 東独の道路などインフラは整備され、生活水準も急速に西独側に近づいたが、賃金の安い東欧諸国が次々にEUへ加盟してくると、企業投資などが減退し、旧東独の失業率は旧西独の2倍以上になってしまっている ・ 賃金は旧西独に比べ3割も少ない   
壁の復活を希望する声増える・・・ この9月の総選挙では、旧東独政権の流れをくむ左派党が躍進した ・ 統一後西側への憧れから、旧東独市民は自由主義経済を旗印にするキリスト教民主同盟(CDU)を支持するものが多かったが、そうした人々が今度は失望を胸にして懐旧に走った ・ 「オスタルギー」(オスト:東 ・ ノスタルギー:郷愁を組み合わせた造語)が人々の口端にのぼっている ・ 「壁」復活を望む声は、大きな負担を強いられる西側にも出ている     
   昔の生活を望む者多い・・・・・ 東独出身の俳優ケーファーさん(88)はいう「正しい歴史認識が定着するまでにはあと100年はかかるであろう ・ あの時代には壁だの秘密警察だのと不正国家といえる部分もあったが、そこに生きた人々にはそれなりに自由があった ・ その自由が今欲しい」と ・      
   ベルリンの壁の歴史・・・・・・・ 第2次大戦後ドイツは占領国家となり49年に東西それぞれに共和国が誕生した ・ 53年にスターリンが死去すると東独内で反ソ機運が高まり、米国などの支援で発展する西独をめざす市民が増えた ・ 労働流出を恐れた東独政府は61年に延長150キロにわたる壁を築いた ・ その後東独は社会主義の優等生といわれるほどに成長したが、石油ショックなどの影響で経済は再び停滞、89年11月9日ベルリンの壁が崩壊するに至った ・ そして90年10月東西ドイツは統一された ・ ベルリンの壁(Wikipedia)  
■東欧の名所における変化 :  (日本経済新聞10月30日〜11月4日より)  
フリードリヒ国境検問所・・・・・・・・ ベルリンの中心街を南北に貫くフリードリヒ通りを歩いて行くと、観光客でごった返すところに出る ・ ベルリンが東西に分かれていた頃、東西を壁を通過できるところ、通過する人々をチェックした検問所があったところで、今も忠実に再現されている ・ 通称チェックポイント・チャーリー ・ ベルリンの壁にあった国境検問所で、1960年代には米ソの戦車もが睨み合った場所である ・ 国境検問所       
   自由の大切さ教える壁に・・・ 当時この壁から出るには旅券や荷物の検査、さらに通貨の両替などで1時間はかかった ・ 旧東独兵士が壁の保守、点検に使った舗装道路は今は遊歩道やサイクリング道路に姿を変えている ・ 自由を封じ込めていた壁は、今ではベルリン随一の観光地となり、自由の大切さを教える存在になりつつある    
チャウセスク宮殿(ルーマニア)・・ ルーマニアの首都ブカレストの市街を見下ろす薄暮の丘陵に巨大な館、旧チャウセスク宮殿がある ・ 1989年の体制転覆まで同国を支配していたチャウセスク元大統領が建築した巨大な宮殿である ・ チャウセスク宮殿 は高さ86m、1000を超す部屋を抱える宮殿は、行政建造物として米国国防総省ペンタゴンに次ぐ大きさである ・ 現在は国会議事堂などが入った多目的施設「国民の館」として利用されている    
   共産主義時代の悲惨さ・・・・・ 共産時代は政府の宣伝に完全に染まっていた ・ 空腹の連続で、おやつはバナナでチョコレートはダイヤのように貴重であった ・ 鳥の足の先やくちばしがご馳走であった ・ 他の共産主義国家に比べても経済、政治状況は最悪で、その怒りがチャウセスクに向った ・ 89年に学校の教室でチャウセスク夫妻の銃殺刑の映像が世界に流され、変化は予想外のスピードで訪れた ・ ルーマニア観光        
   今年のノーベル文学賞・・・・ ルーマニア生まれのドイツ人女性作家ヘルタ・ミュラーさん(56)が受賞に決まった ・ 圧政下の人々の心象風景を描いたことが受賞の理由 ・ 受賞決定後ミュラーさんは「ルーマニアにはポスト独裁時代に典型的な汚職が今も蔓延している、世界を襲った金融危機で共産主義への支持が再び強まるのではと心配している   ルーマニア生まれのドイツ人女性作家ヘルタ・ミュラーさん(56)が受賞に決まった ・ 圧政下の人々の心象風景を描いたことが受賞の理由 ・ 受賞決定後ミュラーさんは「ルーマニアにはポスト独裁時代に典型的な汚職が今も蔓延している、世界を襲った金融危機で共産主義への支持が再び強まるのではと心配している     
ワルシャワ証券取引所・・・・・・・ ここ数ヶ月は外国人の買い越しが続いており、市場環境は大きく改善している ・ ワルシャワの中心部にある証券取引所のホールで経済セミナーが開かれていた ・ ワルシャワ証券取引所は89年共産体制から市場経済システムに移行後、旧共産党本部の建物で産声を上げた ・ その当時、「共産主義者は出て行け」と石が投げられ、党員は裏口から逃げた ・ 2000年に隣に新館が建てられ現在はそちらへ移設された ・ そして時価総額、取引量で今年、ライバルであるウィーン証券取引所を上回り、中・東欧の中心市場として地位を築きつつある  
   中・東欧中心の市場へ・・・・・ 今年はじめ、ポーランドは金融危機の直撃を受け、通貨や株式は急落に見舞われたが、09年のGDPの伸びは欧州連合で最高の1%強に達し、早期回復の期待が高まっている ・ 「自由経済には浮き沈みははつき物 ・ 永遠に底辺をさまよう共産主義体制に比べればはるかにまし」とセミナー参加者は語っていた ・ ポーランド観光公式サイト    
             
    
  中・東欧の駆け足歴史     
    
■中・東欧で勢力をもった帝国の歴史 :           
神聖ローマ帝国・・・・・・・・・・・・・・・ 中世に現在のドイツ、オーストリア、チェコ、イタリア北部を中心とした政治団体、神聖ローマ帝国があった ・ 帝国というよりは、大小の国家連合体であった期間が長く、この中から最後にはオーストリア帝国(当時はオーストリア大公領およびハプスブルク家)やプロイセン王国などがあって、諸国家が成長していった ・ AC962年〜1806年まで続き、解散した  
   ハプスブルク家・・・・・・・・・・・ ハプルブルク家はスイス北東部のライン川流域を発祥地とし、1273年ルドルフ1世が神聖ローマ帝国の君主に選出されたときに始まる ・ これ以降ハプスブルク家はオーストリアに中心にして、帝国南東部へと勢力を広げた ・ 1438年アルブヒト2世、1440年にフリードリヒ3世がドイツ国王になってからは、王位をほぼ世襲化していった ・ その後婚姻関係などから勢力を広げ、スペイン、ブルゴーニュ、ナポリ、シチリア、中南米植民地などを支配し、ハンガリー王、ボヘミア王へとなった ・ 1550年にスペイン系とオーストリア系の2つのハプスブルク家に分かれ、スペイン系ハプスブルク家は中南米で植民地を支配、「日の沈まぬ大帝国」と言われるまでになった ・ 一方オーストリア系ハプスブルク家も勢力を拡大したが、1648年30年戦争の終結で結ばれた条約により弱体化した ・ しかし1683年オスマントルコ帝国のウィーン包囲を撃退、1699年オスマン帝国の支配下にあったハンガリーをも奪還し、再び力を取り戻した
      中期・・・・・・・・・・・・・・・・ 1740年王位継承が女性、マリア・テレジアに相続されたが、神聖ローマ帝国の王位を喪失するほか、その相続を不服とするプロイセンとの間にオーストリア戦争が勃発、イギリスなどの援助を受け挽回、オーストリー、ボヘミア(チェコの中西部)、ハンガリーの継承を承認された ・ 1745年テレジアの夫であるシュテファンが神聖ローマ帝国の帝位を奪還、大国化するプロイセン王国に対抗するため、フランス王国に接近接近、マリー・アントワネットの結婚もその一環であった  
      神聖ローマ解体後・・・・ 19世紀初頭、神聖ローマ帝国はフランス皇帝ナポレオン1世の攻撃に屈して完全解体し、ハプスグルク家は帝国の王位から退位し、オーストリアの帝室として存続した ・ しかしその後のロシアを敵にしたクリミア戦争、ドイツを敵にした普墺戦争とにおいて力を失った ・ 国内でも他民族国家であることから自治が混乱し、1867年見はハンガリー帝国とオーストリー帝国が分離独立することになった ・ オーストリアのセルビアへの宣戦からからの第1次世界大戦でも、チェコスロバキアの独立を約束してしまう ・ ハプルブルク最後の皇帝カール1世は亡命し、1918年ハプスブルク帝国は崩壊した
   プロイセン王国・・・・・・・・・・・ ホーエンツォレルン家の支配したバルト海沿岸の王国で、首都はベルリンにおいた ・ 18世紀〜19世紀にかけて栄えた王国で、1701年ブランデンブルク選帝侯・プロイセン公フリードリヒ3世が初代プロイセン王フリードリヒ1世となり、第9代プロイセン国王兼第3代ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世が退位するまでプロイセン王国は続いた ・ プロイセンを形成する民族はゲルマン民族で、北部ドイツ、ポーランドなどを領有した ・ 1815年ドレスデンに首都をおくザクセン王国からも土地を土地を割譲してもらっている「^  
     初期・・・・・・・・・・・・・・・・・ 1660年フリードリヒ・ヴィルヘルム大選帝侯は、ポーランド・スウェーデン戦争で政治的にうまく立ち回り、協定によってこれによってその子フリードリヒ3世は「プロイセンにおける王」を名乗ることができた ・ 1701年プロイセンの王フリードリヒ1世となった ・ また目前に迫ったスペイン継承戦争のために兵力を集めていた神聖ローマ皇帝レオポルト1世は、8,000の兵を援軍として派遣することを条件に、フリードリヒの王号を認めた
     中期・・・・・・・・・・・・・・・・・ フリードリヒ3世大王の治世の間にプロイセン王国の領土と人口は約2倍に、常備軍は22万になった ・ 大王の後を継いだ甥のフリードリヒ・ヴィルヘルム2世の時代もプロイセン王国は成長を続け、1792年と1795年の2度のポーランド分割によって、ダンツィヒ、トルンおよび新東プロイセンと南プロイセンもその版図に加え、更には1789年にはラングハンスが王の命により、ギリシャの列柱門を模したブランデンブルク門をベルリンに建設した  
     後期・・・・・・・・・・・・・・・・・ プロイセンは1866年の普墺戦争に勝利して北ドイツ連邦の盟主となり、続く1870年から1871年までの普仏戦争にも参謀総長大モルトケらの活躍によって勝利し、エルザス=ロートリンゲン(フランス語ではアルザス・ロレーヌ)を併合、またプロイセン国王は1871年にヴェルサイユ宮殿で統一ドイツの皇帝となった ・ 1918年のドイツ革命(第一次世界大戦中のドイツ帝国におけるキール軍港の水兵の反乱に端を発した大衆的蜂起とその帰結としてカイザーの退位)で、帝政の打倒と議会制民主主義を旨とするヴァイマル共和国が誕生し、王政は終わった ・ プロイセンは、封建制度の国家であり、宰相ビスマルクは鉄血政策を唱え、それによってプロイセンはドイツ連邦の盟主としてドイツ統一を成し遂げ、ドイツ帝国の基礎を作り上げた。しかし、これまでのプロイセンの自由な文化と伝統を崩し、ドイツナショナリズムを唱えた ・ ビスマルクはナチス・ドイツの土壌を築いたとも言える  
   初期のドイツ・・・・・・・・・・・・・・ 911年に東フランクのカロリング家が断絶した際、ドイツの部族大公たちは西フランクのカロリング朝に服さず、フランケン公コンラート1世を国王に選出した ・ これをもって「ドイツ人国家」の歴史の始まりとする ・ そののち、919年にザクセン公ハインリヒ1世が東フランク王となると、彼は921年に西フランク王シャルル3世に王位を承認させ、ついでまもなくロートリンゲンを西フランクから奪い、東フランク王がロートリンケゲン・ブルグンド・イタリアに至る支配権まで獲得し、次代のオットー1世の神聖ローマ皇帝戴冠となる      
■中・東欧 諸国の歴史 :          
ハンガリーの苦難の歴史・・・・・・・ AD1000:中央アジアからのマジャル民族 ・ AD1241:蒙古襲来・80年モンゴル占領 ・ 匈奴(フン)、アヴァル、オノグル、マジャル、ベシェニョー、ヤース、クン族 ― この七つの民族にゲルマン人・スラブ人が移住し同化してきた ・ 人口が最も大幅に減少したのは、16世紀半ばから17世紀の終わりまでにかけてのトルコ占領の150年:トルコに占領されて、ハンガリーは三つに分断され、西部と北部はオーストリアのハブスブルグ家の国になった ・ 1849ハプスブルク家によるオーストリアとの二重帝国制 ・ 1914年6月ボスニアの首都・サラエヴォで二重帝国の皇太子が暗殺され、これをきっかけに、第一次世界大戦が勃発し、オーストリア・ハンガリーが敗北し、解体された ・ 第2次大戦後40年間共産政権下
チェコ・スロバキアの分割・・・・・・・ チェコ人とスロバキア人は、元々同じ西スラブ系の民族 ・ 1000年ほど前から第一次世界大戦まで、チェコはドイツ(オーストリア含む)に、スロバキアはハンガリーに支配され少しずつ文化や慣習などがちがってきてしまいました ・ 冷戦崩壊後、チェコ&スロバキアという二重国家になりました ・ スロバキア側は、スロバキアは貧しく、スロバキアへの経済投資を要求し、要求が認められないなら独立すると主張しきした ・ スロバキアがいなくなれば、経済的により豊かになれると考えたチェコ側は、スロバキアを独立させ、経済的負担を軽くすることを選択したのです           
          
■東独・チェコ・ハンガリーへの旅 :         
2009年11月筆者の旅報告・・・・・・ 12月にブログで発信します ・ abcaiueo.comのブログ をご覧ください
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